【暗闇で孕む】

□第六話
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 雑然とした机の上には様々な数式が積み重なっていた。
 その雑然とした中にも部屋の主なりの規則性が見てとれ、まるで彼の思考の海がどんな様であるかを示しているようである。


 朝。
 静かに、けれどしっかりと鳴りだしたアラームが、最初はゆっくりと、次第に速いリズムになりながら朝の訪れを告げる。

 寝ぼけ眼でアラームを止めながら、眠気が付きまとって薄い膜が掛かった意識の端で、人の声に耳を傾ける。
 隣の、井上親子の会話だ。

 (鍵持った?)
(持った、持った。あっ、母さん制服!)
(あぁ、もう、忘れてた。昨日洗ったんだったわね)
(じゃあ、行こうか)
(悪いわね、朝早くから手伝って貰っちゃって)
(いいっていいって。大学休みなんだから)

 いつもの、胸が切なくなる程に穏やかな朝だった。

 …職場へ行かねば。

 布団から起き上がるだけの事が、酷く億劫で仕方が無い。
 布団を畳み、胃に物を入れ、身支度を整える。
 扉を開け、規則的に歩き出す。


 新しい王が誕生しても、世界は静かに廻っている。

 静かだ。

 静かだ、己の息遣いが間近に感じられる程に。
 重くたれ込んだ師走の曇天が、私の気分をより落ち込ませる。
 もう少ししたらあの空は、積もる事のない雪を降らせるのだろう。


 あれから半年程が経っても、私は気分が優れないままだらだらと日々を消化していた。
 このままではいけないのだと分かってはいても、腕一本動かすのも億劫で仕方が無い。さりとて、仮にやる気に満ち溢れていたからと言って、私は何を成せるのか、何を成せば良いのか。皆目見当も付かなかっただろう。
 この件は、只の数学教師でしかない自分の手では、最早片付けられない程に成ってしまっている。


 橋に差し掛かると、ジョギングをしている男性とすれ違った。
 橋の中腹辺りで船が通り掛かり、その光景を橋の柵に手を置いて眺めている小学生の後ろを通り過ぎる。
 橋の袂まで来たら川岸に降りて、川上に向かってその脇沿いを通っていく。
 師走の冷たい空気に乗って、路上生活者達の独特なすえた臭いが漂ってくる。
 路上生活者達の住居が、途絶える辺りのベンチに新人が一人増えていたが、その臭いのキツさに変わりはない。

 殆ど変わり映えのしない日々。
 劇的に変わる事の出来ない日々。
 私はその流れを造る歯車の一つでしかない。


 兄さん。
 貴方の方が余程、父さんに似ているよ。
 何かを成す事を目指し、真っ直ぐ進んでいった、父さんに。
 そんな貴方に、逃げ出した俺が、何か言える筈もない。


 広場を抜けて角を曲がると、井上くんの居る弁当屋『かおる』が見えてきた。
 暖かい、素朴な匂いが漂ってきて、私は、日々の幸福が手の届く位置にあるのを実感した。


 あぁ、もう今日で終わりにしよう。
 随分前から解っていた事だが、過ぎた事を何時までも考えていたってどうしようもないのだから。
 そうだ。
 私には、父も、母も、兄も。もう居ないのだ。
 それらは過ぎた事。

 今の私にはささやかな幸福の得られる日々がある。
 それを噛み締める事ぐらいなら、私にだって赦されてもいいのではないか。
 私は今を、生きていきたい。


 「あっ、尾形さんお早うございます!」

 井上くんの人懐っこい笑みに迎えられて、私はマフラーの下で薄く笑った。
 それは井上くんには伝わっていないだろうと確信していたのだが、私が目を少しだけ眇めたのを目撃した彼は、それが私の笑っている時の仕草だと知っていたので、私が笑った事を見事に悟られてしまっていた。
 そして悟った彼が安堵していたのを、下を向いていた私は知る事が出来なかった。
 どうやら失意の底にいた私は、彼の前ですらも笑えず、彼に心配を掛けてしまっていたようだった。

 「あぁ、お早う」
「お弁当、お任せでいいっすか?」
「あぁ、それで頼むよ」
「リョウカイっす!お任せ入りまーす」

 促される前に財布から弁当代きっちりの小銭を出し、手に握る。
 それを見た井上くんが、小さく声を上げ、はいっ!と続けながら手を差し出してきたのでその手のひらに小銭を置いた。
 その際に彼の手に少し爪を引っ掛けてしまい、伸びた爪を切り忘れていた事を思い出す。
 痛かったろう、悪い事をした、と思い、謝罪を口にしようとマフラーを下げた瞬間、

 「おっ、薫くんじゃないかー!今日は朝からお手伝いかいっ?偉いねぇー!」

 次の客が入って来てしまいタイミングを逃す。
 そのタイミングを逃さず奥から弁当を持って井上さんの方がやってきて、弁当を手渡してくれた。

 それを見た先程入ってきた客が井上さんとの会話を始め、井上くんは手持ち無沙汰になる。
 今度こそ、と思いながら顔を上げると思っていたより井上くんの顔が近くにあり、少し驚いてしまった。
 井上くんが内緒話をするように口元に手を持って来たので、私も少しだけ顔を寄せる。

 「いつもご贔屓にして頂いてるんで、味噌汁、サービスしといたっす!」

 慌てて手に持った袋を見ると、確かに何時もより物が一つ多い。
 焦って顔を上げると井上くんの手によって強引に後ろを向かされ、出口へ促される。

 「いーからいーから、遠慮はなしっすよ?さっ、阿部さんは何にしますー?ウチの母親以外なら何でもオッケーですよ!」
「薫くーん!そりゃないよー、もうちょっと靖子ちゃんとの会話、楽しみたかったのにさぁー!」
「薫くんってばもう…阿部さんすみません…」

 突然の事に呆気に捕らわれつつ背中越しにそれらの会話を聞きながら出口に向かい、敷居を跨ぐ。

 「あっ、尾形さん、ありがとうございました!いってらっしゃーい!」

 井上くんに見送りの言葉を掛けられ、小さく心臓が跳ねる。
 それだけで、さっきまでの陰鬱な気分が晴れてしまう自分に呆れてしまう。

 振り返って小さく手を上げる事で返答とし、私はその穏やかな気持ちのまま学校へと歩き出した。
 付け足されたオマケの分だけ、幸せが増量したように感じながら、マフラーに顔を埋める。



 後方で麻田が弁当屋内を窺っているとも知らずに。




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