【暗闇で孕む】

□第七話
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 日が落ちて、夜気の冷たさがフローリングを伝って足に纏わりつく。
 暖房代をケチって冷え込んだ室内でリズミカルに包丁を扱って、俺は夕飯の準備を進めていた。


 ピンポーン───。


 不意にインターフォンが鳴った。勧誘か何かだと判断し、無視しようとしたその予期せぬ音は、けれど一度だけでなくまるで急かすようにして連続で鳴り響き、少々煩い。

 「母さーん?鍵持ってないのー?」

 俺は違和感を感じながらも、まさか宅配の人間がこんな乱暴な鳴らし方をする筈は無いしなぁと、首を傾げつつ玄関を開けてしまい、そして後悔した。

 「っ…!アンタは…!!」
「アンタは無いだろう。かつての養父に向かって」
「…っ何しに来たんだ」
「まぁ、兎に角入らせて貰うよ」

 扉を開けた先には少し前まで総理大臣だった男…麻田が居て、嫌悪感から自然と眉間にシワがよってしまう。
 そんな俺にはお構いなしで入って来ようとする麻田に、一瞬怒鳴りつけたくなったが同時に、事が大きくなってもし隣からそれを聞き咎めて出てきた尾形さんに麻田を見られたら…という一瞬の躊躇が麻田への対応を鈍らせ、結果的に道を明け渡す形になってしまい、俺は仕方なしに諦めてドアを閉めた。

 その麻田が脇を通り過ぎた際に汗の臭いが漂ってきて、より眉間の皺が深くなる。
 今の麻田にはかつて国を纏めていた頃の面影は無く、その薄汚れた姿に少しだけ胸の空く思いを感じた。



 靴を脱いだ麻田は、俺には目もくれずに我が物顔でズカズカと上がり込み、居間の炬燵のスイッチを勝手に入れて潜り込んだ。
 麻田の動作一つ一つに、苛立ちが募る。

 「あぁそうだ。これ、田嶋屋のチーズケーキだ。靖子、好きだったろう?」

 少しこちらを振り返りながら、麻田は持ってきていた紙袋を炬燵の天板の上に置く。その、今までの事を無かった事とするような態度に一気に頭の熱が上がった気がした。

 「っ、そんなモノで誤魔化せるとでも?何しに来たのか知らないですけど、母さんが帰って来る前にさっさと出てって下さいっ…!」
「…やり直せないか、と思ってな。私には靖子が必要だと気付いたんだ」
「母さんにはアンタなんか必要じゃないっ…現に今までだって、アンタが必要だった事なんて一度たりともないっ!」

 どれだけっどれだけ俺達を踏みにじれば気が済む?
 やっとここまで来れたのにっ…自分の都合が悪くなったらすり寄って来やがって!!

 「そういえば、見たよ。靖子の店を。ホステスをやって貯めた金で店を始めたそうだな?」

 ───!っ店も知られているのか…クソッ…誰が母さんと俺の居場所をチクったんだ?

 「だから何だって言うんだ?アンタには関係者ない事だろっ…!」
「ホステスはそんなに儲かるのか?いくら貯めたんだ?」

 そう言ってチラリ、とこちらを見上げた目線に下品な下心が透けているのが見えて、嫌悪感が募る。

 「…そうか、また前みたいに母さんにたかりに来たんだな?アンタ今ホームレスみたいな格好してるもんなっ…!」

 その時、ガチャリ、と玄関が開いた音がした。
 マズい。

 「ただいまー。あら、薫くん?尾形さんでもいらっしゃってるのー?」

 …っなんてタイミングで!

 どうしたらいいのかと焦っていると、最悪のタイミングで帰って来た母さんの元へ麻田が向かおうとし、慌てて肩を掴んでそれを阻止する。
 麻田は俺のその行動に反応する素振りすら見せず、その場で母さんに声を掛けた。

 「久し振りだなー、靖子。残念ながら尾形という人物はいないがな。新しい男か?流石、ホステスをやっていただけはあるなぁ?」
「っ!アナタ…」
「母さんっ、取り敢えず部屋に…」

 麻田の肩を掴んだまま顔の血が引けた母さんにそう言うと、母さんは無言で頷き麻田と目を合わせないようにして、そそくさと部屋に向かった。
 麻田はそんな態度が気に食わなかったのか強引に前に進もうとするので、こちらも半ば拘束するような形で止めなくてはならなかった。

 「ホステスやって男の誑し込み方もしっかり学んだらしいなぁ、え?あの弁当屋をやる金も男から貰ったのか!?」

 ピシャリ、と何も答えずに母さんは襖を閉めて部屋に閉じこもる。
 これでひとまず安心だ。

 「チッ…なんなんだあの態度は!」

 それはこっちの台詞だと、よっぽど怒鳴ってやりたかったがグッと飲み込み、麻田から乱暴に手を放す。
 怒りに任せて掛けてあったジャケットから財布を取り出し、残っていた紙幣を全額つかみ取り、麻田の前に乱雑に差し出した。

 「あげます。手切れ金です。もう俺達に一切関わらないで下さい!」

 麻田が金を見てピクリと動き、それからわざとらしい程にしぶしぶといった動作で金に手を伸ばす。
 その動作を内心、鼻で笑った。
 金をたかりに来たくせにゴミみたいなプライドぶら下げて、目的は金じゃないみたいな演技をしやがってっ…反吐が出る!!
 その卑しさも浅ましい演技も何もかも…っ!

 …こんな奴にっ、こんな奴のせいで父さんと母さんはっっ…!


 「絶対に二度と俺達に近付かないで下さい。次は警察を呼びますから」
「…分かったよ…帰るよ」

 金を掴み、しっかりと懐に入れてから麻田が玄関へ向かおうとし、その様子に気が弛んだ瞬間、麻田は前触れ無しに母さんの居る部屋の襖を勢い良く引いた。
 着替えている途中だった母が、驚きで小さく叫びながら慌てて後ろを向いてうずくまる。

 「っ!何してんだっ!!」

 ギョッとしてすぐさま襖を閉める。

 「妻に挨拶するんだよ」
「もうアンタの妻じゃないだろ!?」
「またな、靖子」

 麻田は襖越しに母さんに声を掛けた後、こちらを見ながら口の端をニヤリと歪めた。

 「まだまだ現役で稼げそうじゃないか」

 コイツはっ…!

 怒りが突き抜けすぎて、言葉も出ない。

 麻田は来たときと同じような横柄な態度で玄関まで戻り、靴を履き始めた。

 「お前達は私から一生逃げられないんだよ。弁当屋は私が貰ってやるから、靖子には別に稼いで貰わないとな」

 どこまでも腐った言動をする麻田を、殺してしまいたくて仕方がない。
 靴を履く麻田の後ろ姿を睨みながら殴り倒す方法を考えていたら、とん、と背後から誰かが俺にぶつかった。

 ゴッ、と鈍い音が玄関に響く。

 麻田と共に母さんが玄関に倒れ込んだ。
 母さんの手には、電動式の鉛筆削りが握られていた。

 「っな!母さんっ、なにしてっっ」

 母さんが麻田を殴った?!

 「か、母さん!とにかくコレ離して!」

 急いで麻田と母さんを引き離し、母さんの手から鉛筆削りを取ろうとすると、母さんは頑なに手を離そうとしなかった。

 母さん…?

 母さんの目線が、俺ではなく俺の背後に注がれていた。

 背後?
 ハッとして振り返ろうとした瞬間、急に後ろから横の壁へ突き飛ばされた。
 壁に刺していた画鋲がこめかみにめり込み、突き抜けるような痛みが走る。


 「お前何してくれたんだ?あぁ?」
「いっ…離してっ…!」
「何したんだって言ってるだろうが!」
「離してっ」
「死にたいのかこのクソアマ!!」
「うっ」

 母さんが危ない。

 「っ…母さんっ!」

 母さんを蹴りつける麻田に体を当てて突き飛ばし、麻田を押さえつけた。
 その隙に母さんが部屋へ逃げ込もうと立ち上がったのだが、麻田に足を引っ掛けられてすっ転ぶ。
 麻田の拳が俺の鳩尾に当たる。
 息が詰まった。
 それでも麻田を離すまいとしたが掴めたのが上着だけで、麻田は上着を脱ぎ捨てて転んだ母さんに馬乗りになって、何度も殴りつける。

 「止めろっ!!」

 すぐさま立ち上がってなだれ込むようにして麻田をもう一度突き飛ばす。
 床に着いた両手の下に炬燵のコードがあった。
 とっさに、それを掴んで麻田の体を巻き込む様にして炬燵の反対側に転がった。

 「っがぁっ、!」

 理性的な思考は存在していなかった。
 本能的な衝動で突き進む。
 力を込める。
 麻田に捕まれていたのか不自由だった左足が唐突に解放され、より力を込め易くなる。

 がた、がた。
 炬燵が揺れる。
 終われ、終われ!

 ガチャン!と乱暴な動作で玄関扉が開かれる音がやけに大きく響いた。

 「っ大丈夫ですか!?」

 ───あっ

 ふつり、とコードから伝わっていた抵抗感が唐突に掻き消える。
 慌ててコードから手を離して、麻田を覗き込んだ。
 緩んだコードが首にくっきりと痕を残していた。
 息をしていない。
 麻田が…。

 「井上くっ───」
「あっ…尾形さっ…ちがっ…!」

 じわりと脂汗が吹き出す。
 汗は出ているのに、指先が冷たくなっていく。
 バクバクと心臓がうるさいくらいに脈打つ。

 そんなつもりじゃなかった、殺すつもりじゃ…。

 尾形さんは、目を見開いて麻田を凝視している。
 母さんは必死になって、麻田の腕から自分の手を引き剥がしていた。



 十二月一日午後七時…麻田が、死亡した。




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