IS〜インフィニット・ストラトス《蒼き月の輝き》

□人の噂も七十五日
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「痛っ……」
 頬と目元にできた大きな痣が、顔の筋肉を動かすたびにぴりっと痛む。昨日のうちに冷やしはしたが、やはり痣になることは避けられなかったようだ。
「マドカのやつ、思い切り蹴りやがって……」
「自業自得ですよ、御主人」
 愚痴るようにこぼした言葉に、隣の席に座っていたアオが仏頂面でそう言った。自業自得とは俺も思っているが、だとしても無抵抗の人間の顔面に蹴りをいれるのはいささかやりすぎなのではないだろうか。
 そんな心の声が聞こえでもしたのか、アオが深々とため息をついた。無言の主張。それはまるで俺が何もわかってない、と言っているようだった。
「そんなこと言ってもな、あの状況で俺はいったいどうしたよかったんだよ」
「胸を揉まなければよかったんです」
「も、揉んでねぇよ!?」
 アオの言葉に思わずここがバスの中だということも忘れて、俺は大声を張り上げてしまった。不味い、と思った時には既に遅い。周りにいる登校中の高校生の、通勤途中であろうサラリーマンの訝しむような視線が一斉に俺を射抜いていた。冷や汗が全身が滝のように流れ出てくる。
 周囲の視線は皆一様に、なにあれ、と怖いものを見るような目であった。それもそのはずである。俺はこのバスをよく利用しているが、時間の関係上バスの中で見かける人は毎回決まって同じ人だ。人には生活のリズムというものあるし、学校や企業に属しているとどうしても時間というものに縛られる。つまり、ここにいる人たちの八割がたは俺の顔を一度ぐらい見かけたことがあるということだ。つまり必然的に俺とアオの会話――――他の人から見ると、独り言にしか見えない――――を目撃されているということである。
 バスで見るたびにぶつぶつと誰もいない空間に独り言をつぶやく男。考えてみると、これほど不気味なものはない。そんな男が今度は大声で「揉んでない」と叫んだのだから、周囲の人が感じたであろう恐怖といったら想像に難くなかった。我ながら、自分もその場に彼ら、彼女らの立場として居合わせたのならさぞ不気味がるに違いない。
 バスに乗るとき俺が座っている席の隣がいつも不自然なほどに空席になっているのも、俺が入ってくると皆が一斉に目を逸らしたりするのも、もしかするとそのせいなのだろうか。
 しかし、こうなってしまうともうどうすることもできない。このバスが目的地に到着するまでの間、周囲の痛い視線に耐え続けるほか道はないのだ。
「ぷぷっ……御主人の間抜け〜」
「……てめぇ、あとで覚えてろよ……」
 隣の席から必死に笑いを堪えているアオの顔が見えた。殴ってやりたい笑顔、とはまさにこのことだ。殴りたい。だが、殴れない。幽霊もどきだから殴るどころか、触ることもできない。まさにジレンマであり、俺のストレスの根幹を為すものであった。
 バスが次の停留所に停車する。ここの停留所は住宅街から離れた大通りに面した場所なので、俺の乗る場所のように乗車する客で混雑することはなく、数人のサラリーマンが下車していくだけだ。ましてや、学生がこの時間にここを利用することなど滅多にない。だから、少しだけ驚いてしまったのだろう。つい先日も同じ場所で、同じ人間と顔を合わせたというのに。
「あの……ここいいですか」
 仏頂面でそう訊いてきたのは、藍染だった。
「あ、どうぞ……」
 そんな彼女に戸惑いながらも、俺は言った。なんでこの席に、という疑問が脳裏をかすめたがよくよく考えると今現在この混んでいるバスの中で唯一空いている席は俺の隣だけだ。理由は先ほど述べた。大勢の人がつり革を利用する中で、ぽつんと空いている席があればそこに座ろうとするのは当然のことだろう。
 彼女がなぜ仏頂面なのかというのは気になるところであったが、その顔があまりにも不機嫌そうだったのと、そういえばまだそこまで親しい仲ではなかったことを思い出して口には出さなかった。席が隣になって一回喋った程度で仲が良くなったと勘違いしていたら、あとでどんな恥ずかしい思いをするかわかったものではない。思春期の男子がちょっと女子と話したりしたぐらいで、「あれ? この子、俺に気があるんじゃね?」と思ってしまうあれと同じである。勘違いのつけは、のちに自分に帰してくるものなのだ。気を付けておかねばならない。
「あれれ〜?」 
 と声をあげたのは、藍染に席を取られしぶしぶ俺の頭上へと移動していたアオであった。「どうした」と声をかけるとアオは藍染の頬をじっと凝視した。つられて俺も視線をそこへ移す。
 見事なまでにぷっくりと腫れていた。もうそれは見事なまでに左頬が赤く腫れあがっていた。
「せっかくの綺麗な肌が台無しですねぇ〜。これもこれも御主人の誘いを断るからです!」
 言葉は出なかった。アオのこれはいつものことで、気にしたら負けというものだ。彼女としては天罰的な何かだと告げたいのだろうが、あれぐらいで天罰が落ちたら訪問販売を利用した詐欺なんか無敵ではないか。金稼ぎ放題だ。「神様はいつも見ているんです! あはは、神の手前では御主人にどんな無礼も許さんと思え〜!」まるで自分が神様だと言わんばかりに、アオは大仰な手振りでそう言った。どことなく新興宗教の胡散臭い教祖を見ているようだった。
 がははは、と大きな笑い声をあげるアオは通常通り無視することにして、俺は窓の外へと目をやった。また呆けるように景色を眺めて、目的の藍越学園前停留所に着くまで時間をつぶすことにしよう。


 

 目立つのは嫌いだ。なぜかというと、恥ずかしいからである。皆の視線を一斉に浴びるのは日常茶飯事だが、慣れているわけではない。割り切れるとそれはそれで個性として発揮されるのだが、俺の場合どうしても恥ずかしさが勝ってしまって個性として昇華できないでいた。いや、前提として俺の幽霊憑いてる疑惑がどうやったら個性になるのか、というのもあるがそこはあえて置いておくことにする。
 すでにクラスの皆には俺に霊が憑いているという噂は広まっている。聞くところによると、噂はクラスの枠をはみ出して他の学年の生徒にまで及んでいるらしい。部活動やプライベートで言いふらしているのだろう。この調子だと、夏休みが終わったころには藍越学園以外の学生の耳にも入っているかもしれない。噂は広まるが早いというのが、身に染みて体験すると嫌と言うほど実感するものだったというのはここ最近の教訓である。
 さて、そんな俺が何を言いたいのかというと、すなわち、
「御主人とその女が並ぶと、なんだか喧嘩した後のようにも見えますね」
「ほっとけ。俺も気にしってから」
 場所は藍越学園、一年三組の教室。ざわつく室内を見渡すと、あちこちらで俺たちを指さしながらひそひそと声を潜めて会話している生徒達の姿が見えた。「ねぇ、あの二人どうしたの? 結城君のほうは青あざできてるけど」や「分からないけど、噂じゃ結城君が藍染さんを襲おうととして逆に返り討ちにあったらしいわよ?」といったあらぬ噂を交わし、挙句の果てには「私の聞いた噂では、結城君に憑りついた幽霊の仕業らしいわよ」といったどう考えても嘘にしか思えない発言まで飛び出す始末。何がどう婉曲して伝われば、俺がアオに操られて藍染を襲おうとして返り討ちにあった、などというシナリオが出来上がるのだ。だいたい、なんで俺が藍染と喧嘩しなければならない。こっちは是が非でも彼女に文芸部に入部してもらいたいというのに。
 そんな俺の思いとは裏腹に噂は噂を呼び、どんどんと広がっていく。人の噂も七十五日というが、それでも二か月以上は続くのだ。俺だけだった場合は耐えればそれでいいが、今回は藍染も巻き添えを食っている。さすがにこのまま、というわけにもいかないだろう。何とかして誤解を解いておかなければならない。
 と、そこで朝のホームルームを告げるチャイムが鳴り、俺は思考を一時中断した。こういったことは頭の悪いやつが一人で考えても解決するものではない。当事者ではない、渦中の中にいない第三者の意見も必要となるだろう。さらに今回の場合、早急な決着が求められる。そんな状況下で、俺が助けを乞うができるのは一人しかいない。
「ということで、先輩……ここは一つ可愛い後輩を助けると思ってなんとか」
 時は昼休み。俺は文芸部の部室でちょうど昼食をとっていた先輩こと瀧岸玲奈にこうべを垂れていた。理由は簡単、今や学校中に広まっている誤解を解く手伝いをしてほしいのだ。俺の知る限り、今回の一件を客観的にかつ俯瞰的に見ることができるのは彼女しかいない。さらに頭脳明晰ときた。まさにぴったりな役ではないか。
 そんな俺の行動を彼女は昼食のから揚げを一口つまみながら、一瞥した。口の中でいくつものから揚げをもぐもぐと咀嚼している。
「それでなにかしら。私にやってほしいことっていうのは」
 ある程度食事を済ませた先輩は改めて俺にそう問うてきた。この人は基本的に自分が興味ないことには無関心で、特に親しくもない相手には辛辣な態度で接する。俺は彼女の妹と中学時代に面識があり、その関係で先輩とはある程度親しくさせてもらっていた。そのおかげでこの学園に入学してきてからも先輩は俺には砕けた態度で接してくれるし、こうやって個人的なことを頼める間柄になることができた。今回ばかりは、先輩の妹――――瀧岸神皇に感謝しなければならないだろう。
 俺はことのいきさつを少しだけ嘘を交えながら詳細に話した。勿論、俺の痣の理由をそのまま素直に話すわけにもいかなかったので、階段から落ちた際にできたということにしておいた。我ながら無理のある理由だと思うが、正直に話せば俺はその日初めてあった人物の胸を揉んだ瞬間を同居している同世代の少女に目撃され、強烈な蹴りを見舞わされた哀れな男として先輩の記憶に刻まれる羽目になる。それだけは嫌だ。友達が少ない身としては、貴重な縦の関係というのは失い難いものなのである。しかも、女性だ。何としてでも死守しなければならない。
 とまぁ、そんな邪な考えはいったん脳の隅に置いておくとしよう。
「なるほどね。話の全容はわかったわ。それで、貴方は私に何をしてほしいの?」
「誤解を解くために、どうすればいいのか。そのアドバイスをくれないかなぁ、と」
 要するに、誤解を解くための妙案を先輩から頂戴したいということだった。他人を頼る前に自分で考えろよ、という言葉が聞こえてきそうだがこれでも一応昼休みになるまでの間必死になって考えての結論なのだ。どのみち、俺一人ではろくな考えも浮かばなかっただろうから、結果としては彼女に応援を依頼していただろう。
 さて、俺の話を聞いた先輩は少しばかり悩む仕草をした。何を悩む必要があるといいたいのだけれど、今回の件は完全な俺の私情だ。うまくいって誤解を解けたとしても一文の得にもならない。そんなお願いを二つ返事で承諾してくれるほど、先輩はお人よしでもないはずだ。「しょうがないわね。可愛い後輩の頼み……聞いてあげる」
「ほ、ほんとですか!?」
 にやりと口角を釣り上げ、不敵な笑みを浮かべる先輩。その表情はどことなく頼もしくもあり、不安でもあった。なんだか悪いことを思いついてそうな雰囲気だ。しかし、あの先輩が珍しく手を貸してくれると言ってくれているのだ、僥倖である。「でも」と彼女は続けた。
「こんなことする必要ってあるの? 人の噂も七十五日って言うし、ほっとけばすぐに消えるわよ?」
 ごもっとも。いつもの俺なら、そんな噂気にしたほうが負けだ、といって堂々と毎日を過すであろう。噂なんてそのうち消えるのだから、ほっとけばいい。だけど、今回は少々事情が違う。「俺だけが噂になってれば、問題なかったんですけどね」
「でも、今回は藍染もそれに入ってます。あることないこと言われてましたよ。藍染はここに来てからまだ二日目。転入してからそうそう、そんな噂が流れるなんて嫌でしょ」
 友達も作りにくくなって、転入早々孤立してしまうことだってあり得る。それに彼女はなまじその美貌があった分、学年問わず男子どもの間では少なからず有名人となっていた。可愛い転校生が来たぞ、と。そこに今日の噂である。誰がこんな根も葉もないこと言い出したのか知らないが、あまりにも滑稽で失礼なその内容は幾分寛容な心を持つ俺でも看過できるものではなかった。俺はまだ慣れている分、精神的な余裕と言うものがあるが、藍染はどうなのだろう。転入してきたばっかりであまり馴染めてない所で、覚えのない噂をたてられる。転入して日が浅い彼女にはまだ緊張が残っているはずで、そんな噂を知らん顔で生活できるこころの余裕はないのではなかろうか。そう心配しているのである。
「あの子、可愛いしね。昨日は部活勧誘、すごかったらしいじゃない。実際私たちも目を付けたぐらいだから」
「弾の言うには男子の間でも人気らしいですよ。ほんと、この学校そういうことが広まるのだけは早いんだから」
 だから、俺は早目にこの噂を根本から絶ちたかった。下手すれば、彼女の大事な高校生活の初動を嫌な思い出で飾ることになるからだ。
「それじゃあ、この件は任せて頂戴。ちょいちょいと、やっておくから」
「頼みます」
 そう言って俺は文芸部の部室を後にした。「これであの子はウチがもらったわ……!」という先輩のガッツポーズが見えたのは、扉を閉めているときである。なんだか、妙な方向に話が進みつつあるようで、一抹の不安を覚えた。
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