よろず小説

□夏の夕暮れ
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身体がとても冷たくて。
胸が苦しくて。
今にも息が痞えてしまいそう。

ぼんやりと定まらない意識の奥底で、不安と恐怖が警鐘を鳴らしていた。
凍てつく様に冷たい海水が、身体に纏わりついて離れない。

このままでは、あの深く暗い水底へと沈んでしまう。
恐怖から逃れる様にして、無我夢中でもがいた。
体が浮上する様な感覚と共に、視界が明ける。
遥か彼方に、綺麗な水平線が見えた。


どうして私は、此処に居るのだろう?
私は一体、誰なの?

霞んだ記憶は、虫に食われた桑の葉。
大事な箇所は抜けてしまって、分からない。
分かる事は、この大海原には私しか居ないという辛い現実だけで。

ぼうっと見上げた空。
それは青く、高かった。
澄んだ青空の中で、白い海鳥達が、まるで泳ぐかの様にスイスイと飛んでいる。
彼等を眺めていたら、ふと脳裏に何かが過ぎった。

それは、一人の女性が、あの空に向けて、緑色の矢を放つ姿だった。
名前は思い出せないけれど、その人はきっと私と同じく、海の上を行動して、海域を守っている。
『慢心しては駄目』という言葉が口癖で、私にとってその人は、まさにお母さんの様な存在だった。

日溜まりのように暖かいあの人が、私を独りだけ置いて行ってしまう様な人じゃない。
きっと私が、この海で勝手な行動をとったから、途中ではぐれちゃったんだ。
上空を飛ぶ海鳥の鳴き声が、耳に響く。

気が付くと、日がゆっくりと西へ傾きはじめていた。
この頃、早く日が暮れる様になったから、後数時間程でこの場所は真っ暗になってしまう。
でも、何処へいけばよいのか、私には分からない。


『日が暮れてしまう前には、帰還してくださいね』


不安と恐怖に揺れる意識の中で、ふと聞こえた声。
それはとても優しくて、この冷たく凍えた身体を癒してくれる。
この声の持ち主は誰?

会いたい、
会いたい、
アイタイ―

気が付くと私は、海鳥の後を追っていた。
私の体は、相変わらず冷たくて息苦しいまま。

けれど、きっと彼等について行けば。
目的の場所に、たどり着けるかもしれないから。



皆さん、どこなのですか?
私は一体、誰なのですか?
わからないのです。
寂しいのです。





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