よろず小説

□永訣
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「…あれ?」

それは、何時の日の事だっただろうか。
そう、その日は今日みたいに、夕方から雨が降っていた。
昼間は気持ち良い程に晴れていたのに、仕事が終わって帰宅しようとしたら、あの青かった空は一面雲に覆われて。
不安気に上へとかざした手の平には、ぱつぽつ、と僅かな雫の感触を感じる。


「どうしよう…傘持ってきて無かったなぁ…」

天気予報を見てくるんだった…等と思い、ブロッシュは小さく溜息を吐いて、その空を見上げる。
空を見上げた所で雨が止む訳では無かったが、このどうしようも無い空虚な気を紛らわすには、それしか。

…まだ本降りでは無いため、今なら走って帰ればそんなに濡れないかも知れない。
幸い、ブロッシュの住んでいるアパートは中央司令部から程なく近い場所にある。


(これ位の雨なら)

…大丈夫。
そう、腹を括って玄関から飛び出そうとした、その時。


「…ブロッシュ?」

背後から、聞き覚えのある声が。


「…!?ヒューズ中佐!」

ブロッシュがビックリして振り返ると、其処には自分に優しくしてくれる上司、ヒューズの姿があった。
先程まで彼の気配すら全く感じなかったため、驚いてしまっても何ら不思議では無いのだが。
語尾が上づっている部下の声に、ヒューズは思わずクククと笑ってしまった。


「何だ、そんなに俺が現われたのに驚いたか?」

「うっ…」

ヒューズの言葉に、ブロッシュは顔を紅色させてしまう。
その素直な反応は、正に「図星である」と、言葉無くとも分かってしまう位に。


「は、はい…っ」

ブロッシュは熱さを孕む頬に何とも言えぬ恥ずかしさを感じ、ついついヒューズから目線を反らしてしまった。
もしも相手がヒューズで無かったら、この失礼極まりない行為は、正に叱咤されても仕方が無い事だろう。

彼は堅苦しいのが好きでは無く、部下であるブロッシュがそうしても怒りはしない。
否、そうしても怒らないのは、別な所に理由があったのだか。


「…雨か?」

その言葉に、反らしていた視線を彼へと向ける。
ふと、先程ブロッシュがそうした様に、ヒューズは空に手をかざしていた。
その手の平には、ぱつぽつ、と僅かな雫の感触。


「はい、昼までは降ってなかったのですけど…夕方から降りだしたみたいで」

俺、傘持ってきてないんですよ。
そんな事を言いながら、はははっと自嘲気味に笑うブロッシュ。


「でも小降りですし、俺のアパート近いので、走って帰れば何とか…」

そんな事を話していたら、バサリという音と共に、頭上にうっすらと影が出来る。
見上げると、先程まで其処にあった灰色の空は、紺色の何かで覆われていた。
程なくしてブロッシュは、その紺色の何かが[ヒューズの傘]である事に気付く。


「ほら、ブロッシュ」

その紺色の傘の中には、ブロッシュとヒューズ。
つまりこれは、正しく言うと相合傘をしている状況なのだ。

あっ、今。
ヒューズ中佐と肩が触れた。

そんな事を意識してしまい、ブロッシュの頬は先程よりも紅色してしまう。

ブロッシュにとって、この状況はとても嬉しい事だった。
何時もは、遠くから眺めるしか叶わない人を、こんなに身近に感じられるのだから。
それが好きな人なら、尚更。


「お前さん、この近くのアパートだったな」

送ってやろうか?
ヒューズはシニカルな笑みを湛えて、傘下に居るブロッシュに言う。
その言葉に、ブロッシュは紅色した顔をヒューズへと向ける。

本当は、その一言を待っていた。
優しい中佐の事だ。他意は全く無いだろう。
心からの、親切。


「いっ、いいです!中佐のお手を患わせますし…!」

でも、ブロッシュの口から出たのは。
そんな彼の親切を、無下にしてしまう言葉達。
いけない事だと心で思いつつも、恥ずかしさが勝ってしまって止まらない。


「それに、男同士で相合傘だなんて」

「…そっか」

先程の明るいトーンとは違い、少々残念そうなヒューズの声が聞こえる。
不安になり彼へと視線を向けようとしたら、その広い手の平でワシャワシャと頭を撫でられた。


(ああ…)

御免なさい。

その優しさに耐えられなくなって、ブロッシュはヒューズの傘下から雨の中へと飛び出す。
足を地面へと着く毎に跳ねる水滴達の音が、離れていく二人の距離を明確なモノにする。


人は、限られた時間しか生きていけない。
それが長いか、はたまた短いかなんて、どうなるかは分からないけれど。

だからこそ。
人は色々な経験を積んでいくのだ。
時に楽しかったり、悲しんだり。
怒ったり、笑ったり。

そして[後悔]というモノも、その中の一つで。


「ブロッシュ」

雨の中、己の広げた傘下から、鉄砲玉の様に飛び出して離れていくハチミツ色の髪をした青年を見つめる。
先程、ブロッシュの頭を撫でた際に、手の平へと残ったぬくもりが、ヒューズをはにかみさせた。

分かっているんだよ。
俺に甘えたくて仕方が無いのに、その気持ちを否定されたりやしないかと内心恐れている事を。

でも、彼だって人間だ。
きっと何時か、その厚い壁を乗り越えてくれるだろう。
そうすれば、この親切も受け取ってくれるだろうか?


「何時かお前さんと、こうして一緒に帰れる日が来るといいな」

紡がれる、言葉。
その声は、微かにブロッシュの耳へと届いていた。


ヒューズ中佐の優しさを、無下にしてしまった。

その日から、俺は。
「後悔」を、した…。





―永訣―



「…雨」

それは、遠い記憶の様な気がする。
そう、その日は今日みたいに、夕方から雨が降っていた。
昼間は、あんなに気持ち良い程に晴れていたのに、此処へ訪れた頃には、あの青かった空は一面雲に覆われて。
何も遮る術を持たないブロッシュの額や身体の節々に、ぱつぽつ、と僅かな雫の感触。

デジャヴ。

だけど、あの遠い日と違う事が一つ。
あの時、ブロッシュを傘下にいれてくれた人は。
ヒューズは。

もう、この世界には、居ない。





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