Novel

□逆さ夢
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「嘘つき……」
 と咄嗟のつぶやきに、体が固まる。
 ただ、記憶がない、との言い訳にすがるように――目の前の背中に息を止めた。
 自問自答の渦を前に「おちつけ」と言い聞かせ、「おはよう」と言って平素を装う自分も大概だった。
 それから、何を話したのかわからなかった。
 そうだ……、首筋にリップの色を残し家に帰ってきた恋人に唖然とした話しがあったと整理をして。数秒で、バーテンダーの面接など初めから嘘で、いや、あったのかもしれないが途中から事情が変わったのかと、疑念しかなくなったのだ。
 また、慎重に探っていても、会えば初めての芝居の台詞みたいに、唇が震えるのだろう。

「お疲れさま……大変だったみたいね」
「まあな、以外と厳しい世界だな」
「でも先方は気に入ってくれてるって言ってたじゃない?」
「客として、だけどな」

 白けた様子で始まって、時間が過ぎないことに苛ついて。本当は切り出したいのに、なぜか感情を伏せてしまっていた。
 もやもやした感覚が身を支配してゆくようで気持ちが悪い。痛い所を突いて謝らせる簡単な作業が出来ないでいた。
 冗談と題した叱りを、体ごとぶつけることくらいは、当たり前だったのに。

「あいつは、やめとけ」

 すると突然だった。驚きのあまり変な短音が口から出る。
 恋人の目が言う。「俺がいるだろ」と。
 これまた唐突に、足を跳ねられ、支えられ、組み敷かれ、見合っていた。一瞬のことに頭が整理がつかない。
 ふっ、ふっと小さな鼻息を添えて真剣な顔をこちらに寄越しながら恋人が語る。

「お前が男好きなのは知っている」
「……はあっ?」
「だけど、あいつはダメだ……俺が耐えられない」
「はあ……あっ、そう」

 青息しか出ない。こちらとしては当然気分が悪い。
 そこに見える唇の形から女の顔が浮かびそうで、これらの展開に白々しく嘘を被せ、また堂々と、自分を棚に上げていいご身分だ。

「浮気は甲斐性だって首が語ってるけど?」

 するとすぐ太い腕が自分から離れ、指摘箇所を手で覆った。

「自覚があるのはあんたの方!」

 勢いにまかせて出た言葉に、ドキッと鼓動が跳ねた。ついには逃げたくなる。胸の鼓動を押さえるほど、ちらつきだす男の顔に、下腹部もウズきだす。

「よく考えて。どっちが間違ったの」

 呟いた声を抱え、アタシは部屋を出ていた。
 けれども腕を引かれ、それを振り払い、耳を塞ぎ、空気を切って歩く。
 歩いて、歩いて、辿り着いたのは……鉄の扉。

「……」

 あの冷たい背中に何度助けを求めたか知れない。自分をさらけ出さなくとも、近付く事を許してくれているような体。
 今日も無機質な空間に身を委ねに来ていた。冷たい壁に耳を寄せると心地よい機械音がしている。
 ――ここに居たいと思った。
 周囲を窺うも、何の音もしない静かな五階特有の空気感に身が落ち着いてくるのが分かった。
 次に自分の口から出る声は何と言うだろう。それを聞くまで、まだ動けそうにはなかった。


【終】
2021.12.30

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