連載・そして、いつだって

□家光
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「上様のお成−りー」

しゃんしゃんと響く鈴の音が懐かしい。
かつて総触れの度に目で追った、鷹司の姿は当然ながら、そこになかった。

(背筋を伸ばして…、しっかり前を見て…)

以前、稲葉から指導された足の運びを思い起こしながら、茜は大奥へと続く御鈴廊下を、半年ぶりに渡りきった。


*


総触れを終えた茜が葵の間に戻ると、本来の部屋の主に、迎えられた。

「茜、久しいな」

「家光様っ」

慌てて膝を折ろうとする茜に、家光は「そのままでよい」と微笑む。
普段から、文のやり取りをしていた二人だったが、こうして顔を合わすのは、茜が城を出て以来だった。

「こちらの都合で招いておきながら、昨夜は不在ですまなかった。許せ」

「そんな、畏れ多いことです」

家光は、本来上様が身に着ける引き振袖ではなく、簡易な小袖に身をつつんでいた。
薄紫の絞り染めに、銀の帯がよく映えている。
凛とした座り姿は、病床に伏していたことを少しも感じさせることなく、将軍の威厳を放っていた。

「おまえとは、こんなくだらない用件でなく、会いたかったのだが」

口の端を小さく持ち上げて、けだるそうに笑う。
その表情は、ぞくりとするほど色気があった。

「全く、将軍とはいまいましいものだ」

家光は、文机の竹筒に活けられていた忍冬(すいかずら)を、つまらなさそうに指で弾いた。

(家光様は、以前にもましてお綺麗になられた。私になんて、全然似ていないな…)

白い花が放った香りは、家光の美しさをさらに際立たせるかのように甘い。

「さて、茜。さっそくだが本題に入ろう。時間がもったいない」

「はい」

うっかり魅入っていた茜は、居住まいをただすと、上座に座す家光としっかりと向かい合った。

「ときに茜。茜は、近衛家を知っているな?」

「はい。五摂家の一つだと承知しています」

近衛家は、鷹司家、九条家と並ぶ五摂家の一つで格式の高い家柄だ。

「そうだ。その近衛の嫡男が、明日、大奥入りすることになっている」

「大奥に?なぜ今になって…」

近衛家は男子が少なく、嫡男の男性はすでに本家を継いでいると春日局様から教わっていた。

「そうだな。解せぬよな」

全くだというように、家光は扇子を開くと、ゆったりと揺らした。

「茜」

「はい」

「私は京へ行く」

「え?京ですか?」

突然の話題の転換に茜は目を瞬かせた。

「正確にはその先の大坂(おおさか)だ。…水尾様が城に滞在しているのは、知っているな?」

「はい。今も城の重臣の方と、会議中だとうかがっております」

「その通りだ。水尾様は、今の会議が終わり次第、御所へ戻られる。私は京まで、水尾様の従者に紛れ込む算段なのだ。面白そうだろう?」

家光は愉快そうにくっくっと笑った。
水尾様とは話がついているということだろう。

「近衛の大奥入りは、表向き『鷹司の正室候補の辞退による』と、朝廷側は理由づけているが…」

突然家光の口から出た「鷹司」の名に茜は、ずきりと胸が痛むのを感じた。

(鷹司…)

家光は先ほどまで揺らしていた扇子をぱちりと閉じると、唇にとんとんと当てた。

「…さて、それだけが理由だろうか?」

自身に問いかけるように、つぶやいた家光は、すっと視線をあげた。

「近衛はおそらく、朝廷の天皇復権派に担ぎ上げられている」

朝廷の中にはいまだ、現在の朝廷のあり方に不満を持つ『天皇復権派』が存在している。
天皇を中心とした国こそが、本来の国のあり方だという考え__つまり、幕府や将軍の排除を望む勢力だ。

「しかし証拠がない。その証拠をつかむためには、大坂へ行くのが手っ取り早い。なにせ水尾様ですら、もてあましているようだから、敵はなかなかに老獪だ」

(大坂になにがあるんだろう?)

生まれてこの方、江戸から数えるほどしか出たことのない茜にとって、大坂は未知の場所だ。

「近衛のうしろにいるのが復権派である以上、明日からの城も、安全とは言えない」

それはつまり、『将軍』の命が狙われる可能性も十分にあるということだ。

「それでもお前に頼むしかない」

家光は瞬間、苦痛にたえるかのような表情を見せた。
それは昨日、春日局が去り際に見せた表情に重なるものだった。

「留守の間、城を預けられるのは、茜しかおらぬ」

襖ごしに、中庭の鯉がぱしゃんと跳ねる水音がした。
どこからか、笛の音もする。
近づく祭りのために、町のだれかが、練習しているのだろう。

「茜、城を頼む」

「家光様…」

茜は、家光の信頼を全身に感じ、身が震える思いだった。

「もったいないお言葉でございます」

自分とさして歳の変わらない家光一人にかかる重圧は、想像を絶するものだ。

(家光様の背負っているものは…、なんて重いのだろう…)

その重圧に対して、彼女の肩はあまりに細い。
茜は、城下の安全な場所で鷹司に守られながら、手前勝手な嫉妬をしていた自分を、激しく恥じた。

「祭りは、来月だったな」

家光は立ち上がると、閉じられていた襖を、大きく開いた。
聞こえていた笛の音が、一段と大きくなる。
軽快な締太鼓の音も合わさり、お囃子が耳に心地よい。

「今年も楽しみだ。それまでには戻るぞ」

家光の視線は、よく晴れた空に向けられていた。
そこには江戸の町を守るという強い意志が、ありありと浮かんで見えた。
茜は、三代将軍家光への尊敬と畏怖を、改めて抱く。

「心して、務めさせていただきます」

全身全霊を込めて、深く平伏した。


___

春日局」へつづく



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