連載・そして、いつだって
□春日局
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春日局が書類の整理をしていると、自室の襖が無遠慮に開かれた。
「春日局、来たぞっ!準備はできているか?」
騒がしい家光の登場に、小言の一つも言いたくなる。
「…」
が、開きっぱなしの襖を閉めるように、無言で促すにとどめた。
「今、閉めるから…。そうにらむな」
「上様のご指示のまま、万事整っております」
事前の打ち合わせ通りの旅支度が、部屋の隅に置かれている。
用意を任せた稲葉の性格どおり、几帳面で丁寧な仕上がりだ。
手筈は万全。しかし問題は、山積みと言えよう。
「茜との話は、お済みになりましたか?」
問題の一つ目に取り組む。
為すべきことがいかに大きくとも、自分がすべきことは目の前の並べられた、不確定な要素を一つずつ潰していくこと。
春日局はそうやって、この巨大な権力を操ってきたのだ。
「ああ。あれは相変わらずだな。…いや、以前より美しくなった。紫京の言葉をかりれば『愛の力』というやつだ」
家光は楽しそうに笑ったが、その笑みには一点のかげりがあった。
城下で幸せに暮らしていた茜を、政(まつりごと)に引っ張り込んだことを、家光なりに申し訳なく思っているのだろう。
そんな家光の成長を、春日局は、教育係として好ましく思う。
「上様。もう少し声を落としていただけますか?今、城に『上様』が二人いることに気づかれでもしたら大変なことになります」
「そうだな。つい、楽しくてな」
「『楽しい』?」
家光の問題。
それは彼女が物事に取り組むとき、事態が深刻であればあるほど、面白がる癖があることだ。
「今の幕府の状況をよもやお忘れでは?今回の上方(かみがた)行きは、遊びではありませんよ」
前向きな性格と言えば聞こえは良いが、まわりは毎回肝を冷やされる。
もっとも春日局にとっては、ささいなことではあるのだが、一応、釘を刺しておかねば、暴走しかねないのが家光だ。
「そんなことは分かっている」
家光は、『説教はうんざり』というように、あくびを噛み殺した。
「それよりも、永光はどこだ?稲葉は?着替えをしなければ」
快活に告げる家光に、春日局はぴくりと眉を動かす。
「こちらの話はまだ終わっていません」
「しかし、すぐにでも出かけなくては…」
「あちらはまだ会議中です」
「…」
家光は観念したのか、春日局の前に座ると、立てた膝に肘をついた。
「聞こう。手短に頼む」
「では、単刀直入に申します。昨夜は、いったいどこにお出かけになっていたのですか?」
「…城下だ」
「この時期に」
春日局は、ぐっと眉をよせた。
「『供もつけず』、『たった一人で』、城を抜け出すことがどれほど無責任で危険な行為か、少しでも考えましたか?上様」
「…」
「ご自分の命を無駄にお捨てになるつもりですか?」
「…」
「上様がそのおつもりなら、この春日局」
春日局は、懐から愛用の扇子を取り出すと、自らの帯に突き立てた。
「腹を切らねばなりません」
じっと視線を合わせていると、家光の瞳が揺れるのが分かった。
謝るべきか逡巡しているときの目だ。
長い付き合いの家光が、何を考えているかなど春日局には、簡単に見通せた。
「そのぐらいにして差し上げてください」
艶のある声が、二人の緊張を解く。
「十分反省なさっていますよ。ね、上様?」
襖を開け、姿を現したのは、大奥総取締役の永光だった。
「そうです。結局、俺が連れ戻しましたし」
「春日局様、準備はそちらでよろしいでしょうか?」
うしろには、稲葉と火影も続いている。
「やっときたな!」
渡りに船とばかりに、家光はぱっと立ち上がった。
「会議は無事に終わったか?」
「はい、滞りなく」
恭しく微笑む永光に、家光も満足そうに微笑んでいる。
さきほどまでの神妙な様子はどこへ行ったのか?
春日局は、小さく息をついた。
再び家光に話を聞かせることは、今はむずかしいだろう。
「鷹司殿のご様子は?」
気持ちを切り替えると、次の事案に取り掛かる。
懸念事項はまだまだある。
「…ご想像のとおり、かと」
問われた稲葉はあいまいに微笑むと、軽く頭を下げた。
「そうか」
春日局は、またしてもため息を吐いた。
昨夜の茜の様子から、およそ予想はついていたが、二人は望ましい状態にない。
しかし鷹司が、今日の会議から逃げ出さなかっただけでも、良しと考えるべきだろう。
「なんだ、稲葉。奴はまだ駄々をこねているのか」
家光が口を挟む。
「お心が乱れておいでかと…」
「ただの甘ったれだろう?」
「上様。お言葉がすぎますよ」
たしなめる永光の言葉もわれ関せず、家光は、旅の為に用意した市女笠を手に取って、珍しそうにしている。
「上様、笠をもとに戻してください。稲葉。稲葉は、上様にお茶を」
「はい。春日局様」
春日局の言葉に、稲葉はすっと部屋を出る。
家光は言われたとおりに笠を戻すと、今度は火影に目を向ける。
「火影、端的に言え。鷹司の様子は?」
「…はっきり言って、荒れ狂っていましたよ」
矛先を向けられた火影は肩をすくめて見せる。
「一応、最後まで席に着いておられましたけど…。いつ水尾様につかみかかるかと、見ているこっちが冷や冷やしました」
「ふん。まだまだ子供だな」
家光は鼻で笑ったが、春日局から見れば、家光にしても同じようなもの。
つまり、二人ともまだまだ子供だ。
変なところで、二人は似ている。
きっかけがあれば、あるいは打ち解け、よい関係が築けるのではないかと、推しはかっていた時期もあった。
「お前たちが言うには、鷹司は最近『見違えるように大人になった』という話ではなかったか?」
家光は自身を取り囲む面々に目をやると、呆れたというように腕を組んだ。
「…どの口がおっしゃっておいでですか?」
春日局が説教を始めようとしたとき__。
「家光!!!」
廊下を足早に歩く音が近づいてきたかとおもうと、勢いよく襖が開かれた。
「…きたか」
「お前!いったい、どういうつもりだ!」
およそ摂家の嫡男として、ふさわしくない所作の数々。
文字通り部屋に飛び込んできた鷹司は、すでに怒り心頭といった様子だった。
「うるさいぞ鷹司。お前の相手をしている暇はないのだ」
対する家光も、既にけんか腰。
ここが己の私室であることを思い出してもらいたいと、春日局は思った。
「なっ!俺だって好きでお前と話してるんじゃねえ!!」
「全く、その落ち着きの無さ。自分で情けないとは思わないのか?」
鷹司は茜に出会い、驚くほどの変化を見せた。
以前の鷹司には常だった、不機嫌な仏頂面も、無駄に攻撃的な態度も、近頃、すっかり鳴りを潜めていた。
そのため、言い合う二人を見るのは、久しぶりではあったが、それでもうんざりとした光景だ。
「すみません、お止めしたのですが」
開かれた襖の向こうから、茶を手にした稲葉が、申し訳なさそうに顔をのぞかせる。
「稲葉のせいではない」
問題は一つずつ解決していきたいものだが、こうなることもまた、予想の範囲内だ。
「上様。鷹司殿」
この二人を添わそうと考えていた、かつての己の甘さに辟易する。
春日局は、口の端だけをあげて、笑って見せる。
「そんなに写経がお望みですか?」
一瞬にして、二人の動きが止まった。
不確定な要素は、確実に摘んでおくのが、春日局の信条だ。
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「大奥総取締役」へつづく