連載・そして、いつだって

□夏津2
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江戸の噂というのは、その出所がわからなくとも、得てして無視できない。
城下に住まうのは、戦国の世を自らの力だけで生きぬいてきた人々だ。
勘が鋭く、空気を肌で読む。

(戦(いくさ)になる…)

茜にとっては、遠い昔のように思っていた戦国の時代。
考えてみればつい数十年前のことだ。
当たり前のように、人々が命をかけて戦う世。

「戦は…、だめです」

思わずつぶやくと、夏津は同意を示すように頷いた。

「幕府も今はそう言っているが、いつ掌を返してくるかわからねえ。あいつらお偉方は、庶民の命なんざ、虫けら程度にしか思ってねえからな」

たんたんと話す夏津の表情は険しい。

「連中がどんな立派な御託を並べていたとしても、所詮は我欲のためだ」

夏津は現在、幕府側の人間ではあるが、高官ではない。
『上の考えを、丸呑みしているわけではない』ということか。

「俺やお前のような身分の人間は、いざとなれば簡単に切り捨てられる。だが、すでに巻き込まれてしまった以上、上手く立ち回るしかねえ」

夏津の言葉に、茜は、素直に頷くことはできなかった。

(ちがう…、家光様は…)

『祭りまでには戻りたい』と言っていた家光の言葉を思い出す。
茜には、幕府の重役達が、どんな考えを持って政を行っているのかはわからない。
夏津の言っていることは、あながち間違いとは言えないだろう。
しかしだ。

「でも、家光様は、そのようなお方ではありません」

家光は、ちがう。
決して夏津のいうような、血の通わない怪物ではない。

「家光様は、民のことを誰よりもお考えです。夏津さんは、もう少し家光様を信頼してください」

家光の思いを、夏津にもわかって欲しかった。
茜が言い返すと、夏津は小さく鼻で笑った。

「はっ。おまえ、お人よしもたいがいにしとけ」

夏津は聞く耳は持たないというふうに、畳の上に広げられたままだった文書を片づけ始める。

「私がお人よしなんじゃなくて、夏津さんが、疑いすぎなんです」

「どうだろうな」

「少しは人を信用することも覚えてください」

「お前は、もう少し他人を疑え」

くるくると書簡を結わえていく夏津の、整った横顔を見つめる。
茜は初めて会ったころの夏津を思い出していた。

『俺は利用する側に立ってやる』

そういっていた夏津が、言葉とは裏腹に、本当は優しい人だということを、今の茜は知っている。

「それなら夏津さんは、どうして大奥総取締役の代理を引き受けたんですか?」

「決まってる。この役目をうまくこなせば、出世が約束されてるからだ」

夏津は茜の方を見ようともしない。

(でもそれって…)

茜は話を続ける。

「私のそばにいるということは、そのぶん夏津さんも危険なんじゃないんですか?」

「そうかもな」

「そうかもなって…。そんなふうに平気そうにしないでください」

夏津はゆっくり息を吐くと、面倒くさそうに、茜に目を向けた。

「何が言いたい?」

向けられた瞳が、驚いたように大きくなった。

「…お前、なんて顔してんだ」

「え?」

茜は思わず、両手で頬を覆った。
いったいどんな表情になっていたのだろう。

(夏津さんが、あんまり悲しいことを言うから)

きっと泣きそうな顔をしていたのだろう。
『人を信用しない』と言い切る夏津に、寂しい気持ちになっていたのだ。

「そんな顔する必要はねえ」

しかし夏津は、茜が命を狙われることを恐れ、怖がっていると思ったようだ。

「死にたくなかったら、自分の身を守ることだけ考えろ。『お人よし』は、城を出るまで、どっかにしまっとけ」

夏津の手が伸びてきて、頭を撫でられるかと思ったが、額をとんと小突かれた。

「痛いです」

「ふっ。その間抜け面のほうが、まだましだ」

声色は優しく、安心しろと言われてるように聞こえる。

(やっぱり夏津さんは…)

茜は、思わず夏津の着物の袖をつかんでいた。

「夏津さんも、です」

影武者の自分のために、体を張りかねないのがこの男だ。
それは相手が茜でなくても、同じだろう。

「あ?お前…話きいてたか?この耳は飾りか?」

夏津は呆れたというように、茜の耳を引っ張った

「もしものときは、ご自分の身を一番に考えてください。私も精一杯頑張りますから」

夏津は『出世のため』と言っているが、きっとそれだけではない。

(この人は、きっと誰よりも優しい人なんだ)

戦になることを、誰よりも憂いている。
もしかすると、夏津の出自が、名のある武家であったことと、何か関係しているのかもしれない。

「ずいぶんとお優しいな」

夏津は引っ張っていた耳はそのままに、ぐっと距離を詰める。

「鷹司と上手くいかなくなったからって、さっそく他の男に媚びるなんざ、お前もなかなかのやり手だな」

「なっ!そんなつもりじゃっ!それに鷹司とは上手くいってますから!」

慌てて距離を取ろうとすると、さらに壁際に追い詰められる。
顔の両側に、腕をつかれ、逃げ場をなくす。

「夏津さん、なにするんですか!」

「でもまあ」

夏津は、茜の訴えを完全に無視すると、口のはしを持ち上げる。

「そういえばお前とは、口づけをした仲だったな」

「なっ!?」

それは、現実だったのかさえおぼろげになっていた記憶。
以前に影武者をしていたとき、夏津に口づけられたことがあった。

「あれは、夏津さんが勝手にっ」

ほんの一瞬のことで、触れたか触れていないかというぐらいの口づけ。
後にも先にもその一回。
しかも夏津とはそれほど親しかったわけでもなく、自分の思い違いかと思わせる程度のものだった。

慌てふためく茜をさっと解放した夏津は、何事もなかったかのように話す。

「それはともかく、今みたいに簡単に男を近づけんな。近衛がどんな手段でくるかわからねえからな」

(からかわれたっ!)

悔しさに抗議の声をあげようとしたとき、ガタンという大きな音とともに、葵の間の襖が開かれた。

「っ?!」

驚いた茜が、そちらに目を向ける。

「今の話…。どういうことだよ?」

そこには鷹司の姿があった。

__________________

破綻1」へつづく



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