約束の聖戦
□8話
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第1幕 8話 ホレホレの薬
よく、ホラーアクション洋画で引き合いに出されるテーマ、歩く屍。またはゾンビ。またはWalkingDead。
ゲームやドラマでもそのテーマは用いられ、大抵は彼ら屍に追い回され、ひたすら逃げ、そして主人公たちが安息の地を求める冒険を描くのが常である。
そしてどうやら魔王軍にも、そんな冒険が訪れてしまったのだ。
息を殺し、陰から、奴の動向を探る。
彼は生温かい息を吐き出しながら、廊下の十字路で立ち止まり、緩慢すぎる動作で四方を見渡した。目は虚ろで、口の端からはだらだらと涎を垂らしている。背筋を丸めて、腕をだらりと垂らして歩き出すその姿は、歩く屍そのもの。
だがしかし、彼は死んでいるわけではない。
「……い、行った、か?」
彼がこちらへ背を向けてあちらへ歩き始めたので、僕はホッと、止めていた息を吐きだした。
だが、それがまずかったのか。
「ぅあ…?」
彼が、こちらを見た。
目が、合った。
彼はニタァと不気味に笑って、ゾンビのくせに、全速力でこちらへ走ってきた。
「たいぢょおオオおおォぉオオ……!」
「うああああああゾンビのくせに走ってくんな馬鹿ぁああああああああああああ!!!」
***
ことの顛末は、今朝に遡る。
オリヅル少佐は僕から体温計を受けとり、その表示を見ながら、抱えていたファイルに何やらペンで書き込む。
「うん。体温も平熱だし、魔力も脈も正常。晴れて退院よ〜、おめでと〜」
彼女はにこにこしながらファイルを閉じた。
「世話になったな」
「いえいえ〜、これからもお世話になってくれてもいいのよ〜?」
彼女の明るい笑顔に僕も元気づけられながら、シクラメンの鉢植えを抱えて医務室をあとにした。
そこまで大きな鉢ではないので持ち運びに苦労はしないが、持ちだしたところでどうしようか迷うところではある。自室の窓辺に置いておけばいいだろうか。
見舞いにこれを持ってこられたときは内心苛立ちしかなかったが、花に悪気があるわけではない。部屋に飾って、お世話しよう。ちゃんと見れば、可愛らしい花であることには違いないのだし。
まだ早朝、ひと気のない廊下をシクラメンと共に歩き、誰と会うこともなく自室に着いた。
てっきりどこかからかヴィスが出てくるのかと思っていたのだが、なんだか調子が狂う。まあ、静かな朝も久しぶりだし、そのぶん謳歌しようか。
自室に入ると、それほど日も空けていないのに、妙にその部屋が懐かしく感じた。照明がまだ灯されていない室内は薄暗く、物寂しい。
「ただいま」
誰が返事をすることもないが、一言そうこぼせば、奥から、おかえりなさいと声が返ってくる気がした。
シクラメンの花を抱えたまま書斎を抜け、奥の寝室へ入る。
「って、どうして貴様がここにいる、不法侵入者」
そこは無人のはずなのに、ベッドの上には赤髪の馬鹿が。
馬鹿は枕に埋めていた顔を上げ、へらへら笑いながら何かを言おうとする。
「ぶぎゅっ!!」
言う前に、僕がシクラメンの鉢植えを馬鹿の頭の上に落とした。
「いっいだい…」
涙目になりながらも、彼は頭の上に落とされたシクラメンの鉢を支え、それが落ちないようにしている。律儀と言うか、なんというか。
「貴様から合鍵は奪ったはずだが? 今度はピッキングでも始めたか? あん?」
「やだなぁ、さすがの俺でも無理矢理開けて入るなんて野暮なことはしませんよ。ちゃーんと、合鍵のスペアで…」
「そのスペアキー、寄越せ」
「いやぁああまた壊すんでしょぉおお!!」
いきなり叫び始めたヴィスは、鍵を取られまいとして、僕からさささと距離を取る。
「……まあいい。僕がカギをつけ変えれば済む話だ」
「え、それは勘弁してくださいよ。今の鍵のスペアキー、百本も作ってあるんですから」
「………」
その金は、いったいどこから出ているんだろうか。意外と資産家の息子だったりするんだろうか、彼は。
「敬服だ、貴様の執念には」
恐ろしいを通り越して、感嘆である。
「ふふふっ、そーれほどでもー」
「褒めてない。あと、シクラメンの花はそこの窓辺に置いといてくれ」
「はーい」
どれだけ僕に怒鳴られてもへこたれない彼は、鋼の精神の持ち主なのかもしれない。見習いたいとまで思い始めてしまって、どうやら僕の感覚はかなり麻痺してきているらしい。
「隊長、まだ魔王のとこに行ってないんでしょう? ってことは、まだ第三部隊は休日ですよね!」
「今日中には行くつもりだ。夜にはまた次の任務が下されるかもな」
「ええ〜…」
彼の不服そうな嘆きを背中で聞きながら、机の上の書類を漁る。提出するものは特にない。あるとすれば、エルタ支部任務での報告書くらいだ。
午前中には書き上げて、魔王のところへ持っていきたい。
「ヴィス、とっととシクラメンを置け。ご飯食べにいくぞ」
「まーた、シュークリームですか?」
「悪いか?」
「いーえー別にー」
*
「メリーじゃないか。早いな」
まだひともまばらな食堂。いつもはそれほど早く起きてくるわけではないメリーが、一人テーブルの隅でスープを飲んでいた。
彼女はこちらに気づくなり、いつも通りふわりと微笑む。ただ、
「あぁ、おはようございますぅ、隊長ぉ…」
「……どうしたんだ、そのクマは?」
彼女の目の下には、大きく濃いクマが。
尋ねれば、いつも以上にゆったりした口調で答えた。
「そのぅ、寝る前に魔道書を読んでいたら、どうしても載っていた魔法薬を作ってみたくなって……」
「まさか、それで夜通し起きていたのか?」
「はいぃ」
弱々しいというか、少し背を押せばそのままテーブルに突っ伏して眠り始めてしまいそうな気配の彼女。こうして起きているのが不思議である。いや、実はイルカのように頭半分だけ寝ているんではなかろうか。
「食べたら、早く戻って寝たほうがいいぞ。幸い、今日は任務はないだろうから」
「はぃ、そうしますぅ…」
そう言っている間にも、彼女の体は左右に揺れはじめ、いつ倒れるか気が気でない。
「で、どんな薬を作っていたんだ?」
少し興味がある。魔法やそれに関連するものに詳しい彼女が、わざわざ作りたいと思ったもの。きっとすごい薬なのだろう。
「えぇと、魔道書に書いてあったレシピのまま作ったんですけど、なにぶん、魔道書自体が古いもので、効力が書かれていたページが、破けてどこかに行ってしまっていたんですぅ……」
「じゃあ、なにに使う薬かは分かっていないのか?」
「いいえぇ、薬自体の名前は分かっているので、どんあ効果かはある程度察しがつくんですが、どのくらい強いものなのか、どのくらい長く効果が持続するかは分かっていなくて……でも、生成法がかなり特殊でマニアックなものだったので、それなりの効果は期待できるはずですよぅ」
「へえ、じゃあ凄い薬なんだな。で、それはいつごろ完成するんだ?」
「あ、それならもう完成していて、小瓶に入れてそこに置いてありますよぅ………あれぇ?」
メリーがテーブルの上を指差す。しかし、そこには何もない。
小瓶を探そうと視線をめぐらすと、僕もメリーも、僕の後ろにいたヴィスに辿りついた。
ヴィスが、拳大ほどの瓶の中身を、豪快に飲んでいた。
「うへぇ、なにこの栄養ドリンクまず〜」
彼はベロを出して不味いアピール。
彼が手に持つ瓶の中身は、空っぽである。
「………メリー、一応訊いておくが、あの瓶に入れていたわけじゃないよな?」
「えぇっと、私のものと見紛うほど、よく似た瓶ですねぇ……」
僕もメリーも、次の言葉が見つからず黙るしかない。
そんな僕達の様子に、ヴィスがきょとんと目を瞬かせた。
「どーかしました?」
途端、のんきな彼にメリーが抱きつく。
「うわぁぁああん一晩寝る間も惜しんで魔道書と睨めっこしたのにぃい!!」
「えっ、ちょっ、そんなにこの栄養ドリンク大事だったの!? ごめんな!?」
栄養ドリンクじゃないだとか、メリーが泣いているのはそこじゃないだとか、いろいろヴィスに物申したい。
それ以前に、彼は僕の真後ろでメリーの話を聞いていたのではなかったんだろうか。いったい、何をしていたんだか。
「ヴィス、それはメリーが一晩かけて作った薬で、彼女にとっては大事なものだったんだぞ? お前、他人のものを勝手に飲むなんてどんな非常識を教わってきたんだ。道端に落ちてるキャンディ拾って食べてるようなもんだぞ。毒が入っていたって知らないからな」
泣きわめくメリーに代わって、彼に小瓶がメリーにとって大切なものであることを教えてやる。
彼は飲み干してしまった瓶の中身がメリーにとって大切なものだと知ってショックを受けたのか、手に持っていた瓶を落としてしまった。
床に落ちた瓶は割れ、ほんの少しだけ残っていた液の飛沫が、乾いたタイルにしみこむ。
ゆっくりと、彼は泣きまくる彼女を引き剥がした。
「うぅ、ヴィスさん…?」
眼鏡をおでこまで上げて目をこすりながら、メリーがヴィスを見上げる。
彼はかなり反省しているようで、深く俯いてしまっていた。
ちょっとだけ、彼がこんなに落ち込むやつだったのかと、驚きである。
「ヴ、ヴィス、メリーだって鬼じゃない。謝れば許してくれるだろ」
早く謝ってこの件を丸く収めてほしい。しかし彼はなかなか言葉を発さなかった。
「おいヴィス、聞いてるのか?」
なんだろう。落ち込み過ぎで僕の言葉も耳に入らないのだろうか。それとも、薬が不味すぎて、僕の言葉も聞こえないんだろうか。いや、飲んだ直後は喋っていたし……。
僕もメリーも首を傾げていると、ヴィスはメリーのわきをぬけ、僕のほうへとやってきた。
「うん? なんだ?」
しかし彼はやはり俯いたまま。彼の表情もよく分からない。
「おいヴィス、一体どうしたんだ」
とりあえず肩でもゆすってやればいいだろうかと手を伸ばすと、なぜか彼が、僕をテーブルに押し倒した。
「がっ!」
後頭部と背中をいい感じに強打。
「貴様、何をする気だ!!」
こっちが下手に出ればいい気になりやがって、と睨みつける。だがしかし、彼は僕の言葉に対しては、何の反応も示さなかった。
代わりに、
「ダイヂョオォお」
普段の彼らしくない、低い声が僕を呼んだ。次いで、彼の顔が不気味に歪む。
夕焼け色の瞳は血走り、その目は到底焦点が合っているようには見えない。口裂け女のごとく歪んだ口元は、不気味に笑う。
いつもの彼も気持悪い笑い方だが、今回は尋常ではない気色悪さ。
というよりもなにより、目が、イッてる。
「っ!」
僕は、殺気じみた彼の横っ腹を容赦なく蹴り飛ばし、いつものように床にひれ伏させる。
彼が起き上がってくる前にテーブルから降りて体制を整えれば、彼はゆったりと緩慢な動きで起き上がった。
俯いた彼の表情は、やはり不気味な笑みを湛えている。
「うぅ……ふ、ひひ……タ、い、ちょオ……」
「ちょっ、お前どうしたんだ本当に。目が、目がイッちゃってるぞ……白い粉でもヤッてるのか??」
僕の言葉はまるで聞こえていないようで、彼はのそりのそりとやはり鈍い動きでこちらへ近づいてくる。
普通に歩くというより、足をずって移動しているように見える彼の今の様相は、僕にとあるものを連想させた。
「………ゾンビ?」
わずかながら殺気を放つ彼が足を止める様子はないので、念のため、氷魔法で槍を作り、構える。
「ヴ、ヴィス! それ以上こっちに来るな。刺すぞ!」
「ぅ、ヒひ…たィチョ」
ヴィスは、彼のま後ろでしゃがみ込んでいるメリーには目も向けず、槍を構える僕へと、着実に距離を詰める。
なぜ、僕。
日頃、蹴ったり殴ったり暴言吐いたり殴ったり殴ったり蹴り飛ばしたりしているせいだろうか。僕への不満が爆発した? でも、なぜこのタイミングで? なにかキッカケとなるような出来事なんて何も……。
何も?
僕の視界に移りこんだのは、割れた瓶の破片。
「タイチョォオオおおォぉおお!!」
「ひやあああああ!?」
瓶に気を取られたそのとき、今までごにょごにょ唸るだけだったヴィスが、大声をあげて僕に飛びかかったのだ。
ゾンビにあるまじき脚力で跳躍し、僕へ飛びかかろうとする彼はまさに肉食動物が獲物を捕らえるそれである。というか、ゾンビって何動物なんだろう。
「悪い、許せ!!」
さすがに槍で刺すわけにも行かず、とっさに、氷魔法で宙に礫を作りだし、ヴィスへ向かって礫を降らせる。
ありがたいことに、拳大に生成された礫の一つが彼の頭にヒットし、彼は僕に届く前に、顔から床に不時着した。
だが、彼はまたのっそりのっそりと起き上がろうとする。
これ以上はまずい。彼を撥ね退けるのは簡単だが、何度も氷魔法や蹴りをまともに食らえば、彼の体だってもつはずがない。
どうすれば彼が正気に戻るのか。
「メリー、あの薬、飲んだらゾンビ化でもするのか!?」
そもそも、原因はあの薬でいいんだろうか。
ヴィスが起き上がる前にそれだけでもはっきりさせようと、少し離れたところでプルプル震えながらこちらを見るメリーに、そう叫んだ。
メリーは目にたくさんの涙をためてふるふると首を振る。
「そっ、そんなはずないですっ!! だって、だってあの薬は……」
しかし、彼女の言葉が終わる前に、ヴィスがよろりと立ち上がった。
そして、僕は見てしまった。ゾッと、背筋を悪寒が突き抜ける。
ヴィスが一歩こちらへ踏み出したと思ったとき、僕の体はもう勝手に彼に背を向けて走り出していた。全速力で。
本能って、素晴らしい。考えるより先に防衛本能が働くって、素晴らしい。
思考すらもゾッと凍りついたまま廊下へ走り出た僕の耳に届いたのは、メリーのなんとも馬鹿馬鹿しい言葉だった。
「だって、あの薬は、ただの惚れ薬なんですうううぅ!!!!!」
たかが数ミリリットルの液体であんなことになるなんて、男って、恐ろしい。僕も男だけど。
男だからこそ、分かる。
逃げなければ、掘られる。