書物

□春の霞に
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全てが消えてしまう前に、貴方の腕に抱かれたい。全てが夢になる前に、貴方のそばで眠りたい。







貴方だけが、私の全てだから。貴方だけが、私の道標だから。貴方だけが…………私を、受け入れてくれていたから。







愛しているとか、そばにいてほしいだなんて、言葉だけじゃ要らないの。ただ、私を抱き締めて。何も言わぬままに、眠るまで肩を抱いていて。







言葉も口づけも要らないの。ただ、私がいて良かったと、眠る間際に思ってほしい。そして、泣いて。花弁のように儚い奴だったと、声もなく、泣いて欲しい。







たったそれだけで、私の心はみたされるから。






「薬売り、抱いて」





春の夜に、御室が言った。布団に横たわった細い体が、薬売りを求める。瞳に光はない。ただ抱いてほしい。それだけが、彼女の今の全ての思いだった。






煙管から唇を離した薬売りが、些か仰天した表情で御室を見る。………いつもなら、彼が問答無用で求めると、いうのに。






なんと返したら良いか分からず黙る薬売りに、御室がお願い、とか細く囁く。大きな瞳からは、今にも雫が溢れそうであった。






沈黙の中で、御室がもう一度………抱いて、と言う。懇願をするように。薬売りの足もとに跪くように。ただ、あるがままの気持ちで。







「最後に、抱いて。私はお前の腕を、忘れないから………薬売りも、私を……どうか、忘れないで……」







「ーーーーどういう、意味だ」







「最後に、私を抱いて。何も言わなくていい。頼むから、お前を………」







その先の言葉は、御室の嗚咽でかき消された。伸ばした腕がだらしなく落ちて、痩せた二の腕が宙に弧を描く。虚しいままに、縋るものもなく。






春かすみの月に照らされ青白い彼女の涙に、薬売りの胸はふかく抉られた。言葉もないままに腕を伸ばし、御室の背中を抱き上げる。







抱いて、と、御室の唇がもう一度語った。







「御室……」







「っ…………薬売りぃっ………」







お互いを掴むように背中を掻き抱いて、深い口づけを落とす。全てを奪い去るように、何度も、何度も。貪るように、ついばむ様に。







ただこの欲深い時間のまま、明日が来なければいい。御室は何度もいいかけて、口を閉ざした。ま探る手だけに意識をやれば、何も考えずに済むから。







薬売りの手を、吐息を、ぬくもりを。御室の体に焼き付けていく。忘れないように。そしてまた彼にも、忘れて欲しくなどない。…彼女の、すべてを。







「御室っ………」







「っ………ぁ、薬売り……っ!!」







ひたすらに名前を呼び合うだけでいい。どうか忘れてしまわないように。ただそばに。ただ此処に。ただ今を。体に感じ、瞳を見つめていたいから。







忘れないで。縋るように目を見れば、薬売りは無言で口づけた。何も聞きたくはないと、その仕草が彼の心に語り掛けている。





春の夜に桜の雲も見上げずに、ただ互の温もりに抱きついている様を、人は何と言うだろうか。獣だと嘲笑い、罵るのだろうか。





それでも構わない。掴めもしない花弁を見上げるよりーーーーそばにある誰かの腕を掴み、背中に手を回していれば、全ての傷がふさがっていくような気がする。






だから、忘れないで。





滑稽なまでに貴方を求める私を、忘れないで。いつまでもいつまでも、永久に。覚えていて欲しい。思い出して欲しい。





薬売りの腰が、深く沈む。その波に体を持っていかれながら、御室はただ瞳から涙を流し、目を固く閉じた。
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