書物
□海坊主 一の幕
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目線の先。鮮やかな着物。御室の着物の色によく似た、浅葱色。紛うことなき、夜明け前の空に似た頭巾。
ーーーあれは!!!!
頭の中でその人の姿を思い浮かべるより早く、加世はああ!!!と指を指し、素知らぬ振りをするその人に思いっきり叫んでいた。
「薬売りさんじゃないですかあ!!!!」
ーーーー呼ばれ、薬売りはようやく加世に視線をくれる。その鋭い瞳も、やはりあの時から何も変わっていない。そうだ、何も変わっていないのだ。世の中は。
一方の薬売りは、返事をするでも会釈するでもなく。頬をなで、淡栗色の髪をなびかせる風に、何かをポツリと呟くばかり。……愛想というのは、彼には存在しない。
知り合いか?と、幻殀斉。何が引っかかるかと言われれば、坂井で起きたあの奇っ怪な惨殺事件だろう。世では、「化猫騒動」などと、他人事のように言われているらしいが。
「あの人が、坂井の化猫騒動を鎮めたんですよ!!!!」
「な……あ、あんたも呪術者の類か?」
ーーーー何を敵対しているのやら。急に眼光を鋭くし、幻殀斉が薬売りに問う。人知れず、その敵対心のあからさまさに、御室はくっと喉を鳴らした。
ゆっくりと、薬売りの視線が幻殀斉に向けられる。敵対心を顕にする幻殀斉とはよそに、実にこの薬売りというのは、悠長な男だ。
一体何を考えているのか、わからない。薬売りはやがて、紅の引かれた形のいい薄い唇を、霞でも食べるほど小さく開いて。
「ご覧の通り、ただの…………薬売り、ですよ」
やはりいつものように、そう言い切ったのであった。
「針が鬼門の方角を常に指していれば、このそらりす丸は迷うことがないのだとよ」
階段脇。どこで盗み聞きをしていたのか、御室が空を見上げながらつぶやく。その口調も、何も変わらない。
あぁ、鬼門ねぇーーーー。自分で言ったくせに、何故か、思い出す。あの惨事を。人殺しだと、水江に殴られた、あの夕方を。あの夜を。
ーーーー加世。お前を見ていると、私は辛い。
思い出してしまうから。胸の奥で、真央の亡骸が蘇る。彼女の記憶の中で、もう真央は瞳を開かない。成長もしないし、退行もしない。ただそこに、いるだけ。
「…………悲しく、なるよ」
誰にも聞こえないように呟く。が、その痛いくらいに感じる切なさを汲み取れないほど、加世もだてに御室を知らないわけではなくて。
なんとか空気を変えようと、加世は思いつくまま、退魔の剣を見下ろしていた薬売りに向かって声をかけた。
「………もしこの船に妖とかが出たら、薬売りさん、その退魔の剣で斬っちゃうんですか?」
「………どうして?」
「ど、どうしてって……だって………」
あの時だって、そうだったから。
あの時も。薬売りは剣を片手に、化猫に対峙していた。思い出さないわけが無い。むしろ、頭に焼き付いているくらいだ。
「妖とは、この世ならざるもののこと。そんなものは、八百万といるんだよ。………片っ端から斬ったって、きりがない」
「八百万は神様の数でしょう?」
「似たようなものさ。だが」
ーーーーーモノノ怪は、違うーーーー
薬売りが口を開いた刹那。世界が反転し、薬売りと御室。たった二人が、反転した世界に取り残される。音が消えて、風がやみ。静寂。
あれはな、人に近すぎるんだ。…………御室が呟いて、笑う。目頭までの短い眉に、いくつもの皺が折り重ねられた。
一体いつから、彼女はこんなふうに笑うようになっただろうか。薬売りが振り返れば、いつの間にか世界は元に戻っていて。
どこかで会話を聞いていたらしい佐々木が、退魔の剣を見つめ、目を見開きながら荒い息を繰り返していた。
それを見て、御室は先程のような、愛想笑いを向ける。佐々木様、気になりますか。彼女はどこか小馬鹿にしたように彼に言い、次に腰の九字切兼定に目を移した。
「この剣は、モノノ怪の形と真、理がなくば抜けないのですよ。………あぁ、どうされました?鯉口なんて切って」
「いや………ちと、退魔の剣とやらが気になっただけだ」
まるで答えになっていない。佐々木はそのまま、何か兼定にぶつぶつ呟きながら甲板に消えてしまい、加世はギョッと目を見張った。