書物

□化猫 一の幕
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カナカナカナカナ。日暮しが泣く。夏の夕暮れ、外から襖をくぐりぬけて香る空気は、どこかの夕飯の香りを漂わせていた。



その夕暮れの柔らかな空気に反するかのように………絢爛な屋敷の一室、そこだけは空気が硬く歪みなく、ぴんと張り詰められている。




男、女、使用人、ご隠居、お使えの侍。大名坂井家の家人が勢ぞろいして円を囲む中心にいるのは……目を閉じてなにか深い考え事をしている、一人の少女。




彼女は日暮しの五月蝿い鳴き声すら諸共せず、ただ沢山の家人の真ん中で、目を閉じる。ピクリともしないさまは、まるで蝋人形の様。




彼女を中心に張り詰められた空気。やがて、耐えられなくなったのだろう。あぐらをかいて酒を煽る中年の男は、盃を傾けておい、と声を発した。




「いつまでも黙ってられちゃあ、酒が不味くなる。どうなんだ?良いのか、悪いのか」




その言葉に、縦兵庫を結った妙齢の女性はあからさまに眉をひそめ、男を睨みつけた。ーーー嫌悪な空気が、一瞬にして部屋を支配する。




やがて…中心に座した彼女は、ゆっくりと瞼を開き、その瞳をやはり酒を飲み続ける男に向けた。……浅葱色の切れ長の瞳の奥で、光がいっせいに飛び散る。




彼女は問題ないでしょう、と部屋によく通る、やや低めの声でそういうと、今度は目線を上座に座るご隠居に向けた。




「真央様の輿入れの日は、友引。ですが艮にはなんの気も感じませぬし、伊國様の仰っしゃる通り、いつまでも黙っているのは宜しくないですからね」



「それで、真央の輿入れの日は吉なの?」



縦兵庫を結った女性が、彼女に問う。伊國と呼ばれた男は、やはり酒を飲んだままふん、と鼻を鳴らし、馬鹿にするような目線を女性に向けた。




いかにも、水江様。少女は、縦兵庫を結った女性……水江にそう告げる。安心したようにそう、とだけ返事を返した女性はーーー隣にいる娘ーー恐らく真央という娘だろうーーに視線を移す。




真央の無事がかかっていますからね。水江はそう言って真央に微笑むと、真央ははい、とだけ返事をし、光を散らしながら瞳を細めて微笑んだ。




「輿入れは明日とお伺いいたしました。真央様の益々のお幸せ、私も心から願っております」



「すまんが…御室。明日の輿入れ、其方にも来てもらえんだろうか。どうも、孫を送り出すのは心細くてな」



上座に座るご隠居が、口を開く。御室と名を呼ばれた少女は、眉上で切り揃えられた前髪の下の眉を下げ、そのようなことでしたら、と頭を下げた。




ーーーつまりは、了解の意だろう。御室の快い返答に、ご隠居は安堵の表情を浮かべる。




「其方を、信頼しているぞ。……礼はあとで取らせる。小田島、御室を家まで」




「畏まりました。御室様、参りましょう」




小田島と呼ばれた、青い羽織を羽織った青年が立ち上がり、御室の元に歩み寄る。実に機械的な動作だが、青年の実直さが滲みでた仕草であった。




では私は。御室は律儀に家人に頭を下げ、小田島に続いて部屋を出る。そして襖が閉められた刹那には………口元に、笑はなかった。







「なぁ、小田島」



「なんでしょう」




黄昏の径。今まで小田島の隣りを黙って歩いていた御室が、唐突に口を開き、立ち止まって彼の名を呼ぶ。



小田島がつられて立ち止まり、御室の浅葱の瞳を見返せば………彼女は顔を一重梅の夕陽に照らされながら、驚くほど真面目な顔をしていた。




その真剣な面持ちに、小田島は再度なんでしょう、と彼女にいう。……喉が、急に渇きを訴える。こんな真剣な御室の顔を見たのはーー彼は、今までただの一度もなかった。




黄昏に溶ける沈黙の中、御室は輪郭に沿って垂らした黒髪を、ふわふわと風になびかせる。そして……薄紅に染めた唇を、うすら開いた。




「お前と、加世にも言っておいてくれ。………悪いことは言わぬ。実家に帰る手筈を、今のうちに済ませておいた方がいい」



「それは、どういう………」




「お前は、逃げろ。業無きものを巻き込みたくない。あれは血筋と、罪に縛り付けられた念だ。関係のないものはーーー逃げた方がいい」
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