書物
□のっぺらぼう 一の幕
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私の胸のうちにあるもの。縛り付けられた記憶、過去、叶わぬままに打ち捨てた儚い理想。消えては浮かび、また消えていく。
心に貯まる猛毒は、体を侵し心を狂わせる。もうやめてと、何度泣いても。何度嘆いても。体は勝手に刃を向けてしまう。
ねぇ、貴方が救い出してくれるなら、私はそれで幸せよ。あの檻のような絶望の日々から、私を救い出して。貴方にしか、できないこと。
私は貴方の顔を知らない。姿さえそこにあるかも分からない貴方に、私は縋るしかないの。
ねぇ、貴方は……………だあれ?
阿鼻叫喚。血しぶきや血糊。晴れやかな青空の下、白梅の花びらが刹那に赤色に染まり、鉄の匂いがあたりに充満した。
数え切れぬ骸の山。誰が誰とか、そんなもの分からない。だが、女はそれを見て笑い、かすかに唇を開いてみせて。
「あー…………すっきりした」
と、何の感情も篭らない機械的な声で、返り血だらけの顔でやんわりと口元だけは微笑み、女の手からは包丁が虚しく地面に滑り落ちた。
「日置藩藩主、佐々木一家惨殺の件、これより評定を下す」
たからかに響く代官の声。筵の上に膝をつき、後ろ手に麻縄で拘束された女は、その至極偉そうな声に少しだけ反応を示してみせた。
よく晴れた空。憎いほどの太陽の光。女は仰ぎ見てまた俯くと、疲れきったような気の抜けた表情に影が走り、目もとに微かにだが宿っていた光が消え失せる。
代官はううん、と偉そうな咳払いを一つすると、評定文のかかれた半紙をばん、と広げ、これまた声高に空に向かって読み上げた。
「当主和正が妻、お蝶。ーーー市中引き回しの上、獄門磔に処す」
………つまり言ってしまえば死刑である。古代飛鳥の日本では、五刑という五つの刑罰のうち、最も重罪を犯したものへの仕打ちだったのだとか、何だったとか。
そんな慈悲もない命の終わり方にも、お蝶と呼ばれた女は全く動じず、顔色一つ変えない。どころか恭しく頭を下げ、明瞭な声色で言った。
ーーーー謹んで、お受け致しますーーーーー
「貴方一体………何をしたんで?」
苔むした岩の間を、蜥蜴や蛇が這いずり回る。湿気を含み不潔な薄暗い牢の中で、お蝶は突然降って湧いた男の姿に僅かばかり反応を示した。
目の前に座るのは、はてついさっきまでそこにいただろうか。なんとも派手な身なりをし、罪人らしさなど一つもないような珍妙な男が、一人。お蝶と向かい合うように座っている。
その様は、すっかり死に装束に着替えた真白なお蝶とは正反対な極彩色で、この場には全くをもって相応しくない身なりをし、不自然この上ない様子であるのだが。
お蝶の黒々とした瞳が、南京錠に向かう。しかし鍵は掛けてあるのだ。彼女はまた目の前のかぶくな男に目線を戻し、かなりの間を空けて口を開いた。
「どなたです?」
「見てのとおり、貴方のご同輩ですよ。…………薬売りを、しているんですがね」
見てのとおり。男はそう言ったが、この男からは罪人が纏ってしかるべき雰囲気がない。むしろーーー自ら望んだが故に、此処にいるような…………。
お蝶は一瞬だけ眉をひそめたが、男はそんな反応には目もくれず、やや俯き気味にかたりだした。
「客の一人に、けしからん奴がおりましてね。ーーー売った丸薬が効かないだのなんだのと、難癖をつけてきまして。聞かぬは貴様の信心が足りぬからだ。目ざしの頭の喩えもあるじゃぁないかと言いましたら、金を返せと言ってきて。なんとかしようと番所に駆け込んだら、私がこのざまですよ」
「あれ…………鰯の頭だったかな」
「ーーーー可笑しいですね。人を呼びます」