書物
□のっぺらぼう 二の幕
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思い、思い出。私だけの胸の裡にあるもの。
同じ時を過ごそうと、同じ景色を見ようと。私と貴方の胸の裡にあるものは、決して同じではなく。
貴方のすがた、貴方の声。私だけの胸の裡にある、貴方。
……………貴方は、だあれ?
男の姿は紫色の煙のように消え失せる。しかし残された狐面は、あの男の声で高らかに笑ってみせた。
「ははは!貴様の思い通りになどなるか!!」
至極不気味な光景である。御室はそれに隠しもせずに気持ち悪い、と眉をひそめると、薬売りに流し目で目配せをくれた。
はい、はい、と頷く薬売り。すると彼は顔はお蝶に向け無表情のまま、左手を狐面に翳す。…………刹那、彼のなまっ白い手から大量の札が放たれて、狐面はあっという間にぐるぐる巻にされてしまった。
「………黙って、いろ」
一言彼が冷たくいえば、面はいつの間にかお蝶の膝の上にあって、苦しそうに呻きながら身悶えしているではないか。………されど、芝居は進む。
次に薬売りは唐突に立ち上がって袖を翻しながら、自分の周りに円を描くように札を張り巡らせた。梅の花の中、実に異様な光景である。
「人の情念に妖が取り憑いたとき、それはモノノ怪になる」
言いながら、薬売りは札を操り、それらを三段にも四段にも分裂させ、彼の周りはまるで歯車のように回る札でいっぱいになり、薬売りの姿はみえない。
『モノノ怪』………何度その言葉を聞いただろうか。聞きあきた様で聞きあきぬ響きに、お蝶は牢で彼が振り回していた短剣を思い出し、まさか貴方は、と薬売りを目を見張り見つめた。
モノノ怪を、斬りに……?ーーーーお蝶が静かに問えば、薬売りはさもあらん、というように頷き、瞼を伏せながら面倒くさそうにため息をつく。
「ここで斬れれば、苦労はないですよ。………全く、面倒くさいモノノ怪だ」
そうは見えぬぞ。御室が木の幹に腰掛けながら突っ込めば、薬売りはしい、と言うように人差し指を唇の前で立ててみせる。
そしてその滑らかな動作で彼は札を操り、それらを自分達を取り囲むような回路を作り上げた。するとあら不思議。ちょうどそれはあの哀れな男が作ったような極彩色の空間によく似ている。
出来上がった正方形の空間。薬売りは座り込むお蝶に歩み寄ると、ガタガタと彼女の膝の上で動く狐面に目をくれ、涼やかな声でされど冷ややかな声色で言った。
「見せてやるんですよ。モノノ怪にーーーー貴方の真と、理を」
じじ……となにかが焦げ付くような音とともに、札には一斉に赤い梵字模様が浮かび上がり、瞬きをする。御室は何が面白いのか、また喉を鳴らしながら笑えばーーーーーー。
カンカン、と深い青空に響きわたる拍子木。お蝶が辺りを見渡すと同時に、薬売りはにやりと笑いながらやはり冷ややかな声色で言葉を紡いだ。
「お蝶の一生……第一幕」
「私の……一生…?」
お蝶が薬売りの言葉を反芻し、頭に疑問符をたくさん浮かべた、刹那。札がじわりと生き物のように蠢いたかと思うと…………………。
その壁一面、赤赤とした空間いっぱいに、お蝶が良く知る人物が幻のように浮かび上がり、彼女はつい黒々とした瞳を見開いた。
『酒だ酒だ!!酒を持って来い!!』
ーーーー彼女を虐げ馬鹿にし、飯盛女のようにぞんざいに扱った旦那、姑、舅。数え切れない屈辱の言葉の雨嵐。…お蝶の心の傷が、また抉られていく。
彼女は耐えきれずに耳を塞ぎ歯を食いしばるが、それでも声は止まず、絶えることなくお蝶の耳に入ってくる。刃のように、お蝶の古傷を抉り掻き回す。
薬売りは今まで無表情だったがーーーーー急にふっと唇から笑を漏らすと、ほう………と声をあげ顎に手をあてがいながら札に浮かぶ人物を興味深そうに見つめた。
「なるほど………モノノ怪が取り憑くには、絶好の情念だ」
「笑い事じゃありません!!」
「笑い事ですよ。…………私と御室、お前に言わせれば、ね」
ーーーー笑い事?
お蝶が嫌悪感を顕にしながら御室の方に振り返れば、彼女は木の幹に腰掛けたまま、至極だるそうにそうだねぇ、と言った。しかし瞳は面白そうに笑っている。
お蝶が心を殺してまで耐えた日々を、たった今二人は笑い事だとあしらった。…………お蝶は目いっぱいにの憎悪を込め、薬売りを睨みつけた。が、しかし。
…………次に薬売りの口から放たれた言葉に、お蝶は憎悪をすら忘れて、目を見開いた。
「こんな笑い事のために………貴方一体、何人殺した?」