書物

□傾城悪女 一の幕
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真夜中高く昇った月が、今し方吐いたばかりの血を忌いましいほどに照らしている。敷布の上に広がり染み込んでいくそれは、まるで熟れた柘榴をかち割ったかのように光っている。







どれだけ口を押さえ唇を噛み締めても、留まることを知らない血は、指を伝い落ちる。ぼたぼた、ぼたぼたと。不吉な音を立てながら。







それをまるで他人事のように見ながら、御室は自嘲の笑みを零した。咳をしたら一里先まで響きそうな静かな夜に、滴る音は煩いくらいに耳に耳につく。







自分の吐いた血を目の前にしても、御室に特に沸く感情はない。あぁ、こんなところまで堕ちたか。ーーーーーその、一言である。体は悲鳴をあげているのに、心は相反しているのだ。







蛇神の邪気。それはもう彼女一人では抑えきれなくなっていた。今まではモノノ怪を斬るのみに苛まれていたあの苦しみが、段々と体中に広がり、今ではもう常に身を蝕まれている。







蛇神とて元は人といえど、所詮は相いれぬものだったのだ。そして相いれぬものを受け止め、己すら破滅に導いた御室への……………これは罰かもしれない。しかし、それでもこれが定めだと噛んでいた。いや、『出来ていた』のだ。







思えば、あの夏の日、薬売りに出会い彼についていくと決めた瞬間から、御室の浅葱色の瞳は映していた。いつか彼女に訪れる終末と、それに至るまでの長い苦しみを。痛みを。







しかし彼女はそれでも構わなかった。どうせ特異な身で生まれ落ちたのだ。浮世に永らえまいと、冷めすぎた心で、いつか来るその終りを待っていた。だのに………………。







いつから、こんなにも自分の運命を怯えるようになったのか?…彼女が一番分かっている。どうして、今になって自分を蝕む苦しみにもがくような真似をするのか?………彼女が一番、よく知っている。







薬売りが、優しいから。委ねることの安心と、その身に過ぎるような温もりを与えるから。自分を受け止めてくれる安心と安堵に出会った途端、それらは急に彼女にのしかかる様な暗闇に変わり、猛獣のように牙を向いた。







こんなはずではなかった。ーーーー誰を恨むべきなのだろう。もはや、それすら御室には分からない。自分が悪いのか、生まれ落ちた時から決まっていた定めが仇か。………それとも。







「…………お前の、せいだ………」







ーーーー多大なる優しさを御室に与えた、薬売りのせいだろうか。……けれど、彼女は薬売りを恨めない。彼を恨むのはお門違いだ。……悪いのは運命を畏怖してしまった自分だと、分かっている。







それでももし、薬売りを、彼を恨むことで、この永く寒い痛みから逃れられるのならーーーーー。彼女は薬売りを恨むのだろうか。乗っ取られていく体と精神で、彼に刃を向けられるのだろうか。







きっと、出来ない。







背後に振り返れば、耳を澄まさねば聞こえぬ寝息を立てた薬売りが、御室を腕に抱いていたままの体勢で眠っている。長く癖のある洗い髪から、閉じた瞼が伺えて。







薬売りには何も話していない。よもや彼は、こうして毎夜御室が血を吐きもがいている事すら知らないだろう。…………何も知らせずにいられるのも、もう数える程だろう。いつまでも隠し通せない。







けれどそれを知って、薬売りが自分を責めたのなら?御室一人が抱く筈の苦しみを、彼にすら押し付けるようなことになったのなら?ーーーーそうするくらいなら、彼女は…………。







「……………」







浅葱色の瞳が、月を見上げる。何も知らず語らぬ月は、懈みない光を地上に降り注がせ、遍く世界を照らしていて。その光は暗闇をも抱きしめ、孤独な体を包み込む。ーーーそれは、母のよう。







唇や手のひらに血をこびりつかせたまま、御室は月を見上げぼうっと放心する。そして瞼を閉じれば………その濡れ羽色のまつ毛の隙間に、光るものが見えた。
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