書物弐

□謳う
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謳う声が、聞こえた。薬売りの耳に、微かな謳うような声が。漢字の羅列をそのまま言葉にしたような、謳う声が。








彼もだてに耳がいいわけではない。御室も自分から離れて、ふらふらと何処かに行って。薬売りものんびり商いをして、宿場に帰る途中の、林を通れば。








ほんの一瞬、聞こえたのだ。お経のようで、それとはまた違い、囃子唄のようで、それともまた違うようなーー微かな声を。








下駄を鳴らして、立ち止まる。昨晩の雨でしっとりと濡れた土を踏みしめ、竹や伸び放題の草木を掻き分ければーーー夕闇の中、人影があった。








「御室ーーーー」








倒木に腰掛け、夕日が差し込む林で、両手のひらを合わせるその人は…………紛れもなく、先刻行動を分けた御室だった。








一度声をかけたが、どうやら気づく気配はない。御室は肉のない顎を上に向け、夕闇に目を閉じながら、唇をうすら開けている。








ーーーー近寄っては、いけない。心がいうままに、薬売りはその場に立ち止まる。ゆっくりと流れる空気の中、目を閉じた御室が、再び口を開いた。








「安なる睡りに揺らせたまえ、揺蕩へよ。ーーーー布留、由羅、御天祈りて、諸々願給、聞し召す」







「ーーーー」








きっと御室にしか分らない言葉。言霊を操り、意のままを紡ぐ彼女にしか分からない、その言葉に乗せられた、想い。








夕闇に、烏の鳴き声が木霊する。劈くような声に、御室はゆっくりと瞳を開き、合わせていた掌を下ろして、肩から力を抜いてーーー。








いつからそこにいることに気づいていたのか、薬売りの姿を見て、動じることもなくただ困ったような笑みを浮かべた。








「立ちっぱなしもあれだろう、座れ」







「…………盗み聞きを、怒らないのですかい」






「別に。分かっていたからな」







御室に手招かれるまま、薬売りは彼女の隣に腰を下ろす。雨のせいか、やや濡れた倒木から、冷たさがじんわりと染み込んできて。








煙管を取り出して火をつけだした薬売りを見て、御室は笑う。そして………あれはな、と、薬売りの心の疑問を分かっていたかのように、口を開いた。








「ーーー坂井の者達の、成仏と安寧を願って、時折謳うんだ。歌ではない。謳うだけだ。………まぁ、気休めかね」







「…………」








そうではないかと、薬売りも思っていた。あんな辛そうな顔をしているときは、御室は大体、坂井のことをおもいだしているのだから。
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