書物参

□堕ちた先には
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母が死んだらしい。





らしい、というのは、私は立会っていないからだった。病院からの電話を受けて初めて、私は母の死を知った。誰にも、看取られないままだったらしい。







母を病院に入れたのは私だった。実家から離れて暮らしている私は、母の様子を誰にも見てもらえず、病院に入れた。体の良いお払い箱だと………母は、笑っていた。







癌、だった。気づいた時には末期の大腸がんで、全身に転移していた。耐えられないような苦痛を、母は耐えた。なのに私は………母の療養から逃げて、耐えることをしなかった。







自信が、なかったのだ。母一人娘一人で、癌と戦う自信が。段々と衰える母を側で見る自信も。………私は、母より弱かった。誰よりも辛いはずの母から、誰よりも先に逃げたのだった。







『8番ホーム22時発…………が、まもなく参ります…………の………まで…』







雑踏にかき消され、アナウンスが聞こえない。けれど私が待っているホームに違いないだろう。今夜、私は母に会いにいく。ごめんなさいと、その亡骸に告げるために。







「……………」







幸せそうな顔をしたカップルや、ハンカチで目を押さえながらスーツケースを片手に並ぶ女の子。寂しそうに椅子に座る、老婦人。私は、どんな顔をしているだろう。







そして私は、どんな顔で母の亡骸と会えばいいだろうか。どんな言葉でどんな風に、どんな思いでーーーー母の死に顔に、謝罪を述べれば、許されるだろうか。







逃げた娘を、最期の時にそばにいなかった娘を、母はなんと言うだろう。いっそのこと、真夏のホラー映画のように、怨霊になって呪ってくれれば、いいのに。






ーーー優しい人だった。いつまでも少女みたいに純粋で、どこか天然で、それでも私のためにと駆け回ってくれるような、良き母だった。私は誰よりも、母が好きだったのだ。







それなのにどうして、私は一人で此処にいるんだろう?誰よりも大好きな母から逃げるまでの理由が、私にはあったんだろう?……きっと、自分が傷つくのが、怖かっただけだ。







そんな浅ましい娘を、母は許してくれるんだろうか。死人に口なしといえど、母にも気持ちはある。許せないなら許せないと、夢枕にでも立ってくれれば、いい。







「……………」







21:58。もう少しで、電車が来る。私は最終の電車に乗り、朝一番には郷里についているだろう。涙の一つでも、溢れてくれればいいのに。







ふっ、と乾いた笑いが唇から溢れて、私は誤魔化すように向かいのホームを見る。人ごみと、雑踏と、駅員が鳴らす笛の音。ブザー。そしてーーーーーーーー。







「…………お母さん…?」







あの見慣れた後ろ姿が、人ごみに紛れて私に振り返る。髪の毛が靡き、その瞬間に時間が止まる。待って、待って、待って、私は、貴方に謝りたいの、お母さん……!!!!







手を伸ばす。足を踏み出す。体が宙に浮く感覚と、誰かの制止の声。だけど今はそうじゃない。会いに行きたい。頭を下げて、間近に謝りたい。そこに居る、母に。







「お母さん…っ……!!!」







ゆっくりと振り返る、真っ白な横顔。唇に描かれた弓の弦が、私を呼んでいるような気がする。いかねばいけない。私は、母に、伝えたいことが沢山あって、言わなければいけないことが沢山あるから。







コンクリートのホームから足が離れて、体が浮き上がる。そしてーーーー茶色の線路が視界に迫る頃には、私は意識を何故か手放していた。
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