書物参

□宵闇に堕ちる
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宿場町の石畳を、私は薬売りさんの背中をおって歩いている。瓦屋の一件で痛めた肋がまだ僅かに痛むので、坂道を登るのもひと苦労だ。───待ってってば。まだ慣れない下駄での旅に私の歩幅は思ったように広がってはくれない。





そんな私を背中越しにちらりと見やって、薬売りさんはふと立ち止まった。夕暮れの落ちていく太陽からの逆光を受け、その表情まではよく見えない。………私はようやく薬売りさんのすぐそばまで追いついて、はぁ、と疲れをため息で一気に吐き出す。




「薬売りさん、ずっと思ってたんですけど…」




「───なんでしょう」




「この町、すごく静かですよね。……私たち、誰ともすれ違ってなくないですか?」




そう。この山間の峠にぐるっと囲まれた宿場町に来てからもう時間は経つのに、誰ともすれ違っていない。酒屋とか八百屋のようなお店は開いているし、旅館にも灯りはついている。そこに人の生活は感じるのに、誰の気配もしない。




私がずっと感じていた違和感を言葉のままに伝えると、薬売りさんはぐるっと首を捻って辺りを見渡し───そうだな、と、低い声で言った。彼は細い指を顎に当て、夕闇に溶け合ってしまいそうな緩やかな声音で、なるほど───と、言葉を続ける。




「既に皆何かしらを感じて、篭っているのかもしれないな」




「────何かしら、って?」




薬売りさんはそれとは言わない。が、その口振りと目つきから何となく察してしまった。………モノノ怪だ。この宿場町にもモノノ怪が出るのだ。瓦屋での光景は、いまも脳裏に焼き付いて離れない。




この世の道理に逆らって起こったあらゆる惨劇。人が死んだのを間近で見たのは、あれが初めて。あれから度々夢に出てきては、私は夜中に飛び起きてしまうことがあった。




そっか────。まぁ、薬売りさんがここに来たのも理由が無いわけじゃ、ないよね。当たり前だ。私はどこに目をやればいいのか分からず、つい自分の下駄を履いた足元を見た。……墨色の夜の影はもうそこまで来ていて、石畳を艶々と闇に光らせている。




私が落ち込んでしまったのを、薬売りさんは察知したのだろう。彼は桃さん、と私の名を呼んだ。呼ばれるままに顔を上げると、彼はやはり感情の読めない表情のままでそこに立っている。……仕方ないことなのに、露骨に態度に出してしまったのは悪かった。




そもそも、私は薬売りさんに世話になっている立場なのだから、この旅に文句をつけてはいけない。───ごめんなさい、と、私はつい蚊の鳴くような声で彼に謝った。




「謝れと、言っているのではなく。………もしかしたら、あなたはまた、モノノ怪の渦中の念に巻き込まれるかもしれない」




「どうして、そう思うんですか?」




薬売りさんは、近くの茶屋の軒先に出ていた椅子に私に座るように顎で促した。確かに足が疲れていたし、少しでも座れるならありがたい。私はその籐の固い椅子に腰を下ろす。ふ、と見上げる空には、もう一番星がきらきらと輝いていて。




この時代はうんと星が綺麗だ。夜には何もあかりが無いけれど、星明かりが物言わぬ光で足元を照らしてくれる。──元いた時代じゃ、空を見上げることなんて、忙殺される日常にすっかり忘れていた。




薬売りさんは私の隣によいせと行商箱を下ろし、その上に手をかける。それから──さっき私が問いかけた答えの続きを、私をまるで落ち着かせるような穏やかで低い声で、続けた。




「あなたの感情は酷く柔軟───言ってしまえば良い方にも悪い方にも変化する。ことにこの時代に来てからは……負の感情を迎合し、自分もそれに感化されやすい」




「…………」




否定はできない。頭の中に常に母がいて、不安があって。───だから、何をしていても常に感情が底なし沼に足を取られているような感覚があった。いつもくもりガラス越しに世界を見ている感じが拭えない。何を見何をしていても、凝りのような悪い感情が消えてはくれない。




「モノノ怪は、言うなれば情念の塊。───己が胸のうちを理解してくれる人間を、取り込むのは摂理でね」




「ど、どうしたら………私また、怖い目に遭うんでしょうか………」





私はつい前のめりに薬売りさんの声に被せて聞いた。確かに負の感情に影響されやすい私が悪いのかもしれない。けれど────怖い目に遭ってばかりじゃ、体が持たない。感情が持たない。──疲弊していくばかりじゃ、私はこの時代に来た意味がわからなくなる。




薬売りさんは私の方へと手を伸ばし、そっと帯の隙間に何かを入れた。ふわりと、その隙間からお香のような────薬のような、なにか不可思議で、けれど凝り固まった不安を柔らかいもので包んでくれるような香りが漂う。…なんだろう、これ。




帯の隙間に指を入れて取り出してみると、それは小さな巾着だった。薬売りさんの着ている鮮やかな着物によく似た色の布に、赤い紐がかけられている。──匂い袋というやつだろうか。いつか旅行にいった時に、似たようなものを買った記憶が、ある。




「これ…………」




「お守り代わりに、持っていなさい。どうしようもなく気分が落ちたときに、少しばかりは……その香りが、桃さんを楽にしてくれるでしょうから」




確かにその香りは、言いしれない不安を柔らかなものでくるんで温め、少し溶け出して解放してくれるような安心感があった。──もしモノノ怪の感情に触れてしまいそうな時は、この匂い袋を思い出せ、という事なんだろう。




薬売りさんの配慮に、なんだか嬉しくなって。私の口元に笑みが浮かぶ。薬売りさんはその様子を見てから行商箱をもう一度背負い直し、さて行きましょうか、と私を促した。……いつの間にか、太陽は山の向こうにすっかり姿を隠してしまっていて。




じきに夜になる。急がないと。もう既に数歩前を歩いている薬売りさんの背中を追いかけようと、私は椅子から腰を浮かせて立ち上がった。いや────立ち上がろうと、した。
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