書物参

□霧中に堕ちる
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「薬売りのお方!!!」




街道で呼び止められた。緩慢な仕草で振り返った薬売りの視界には───まだ年端もいかぬどこかの下女がひとり、息を切らして立っている。なぜ自分を知っているのか、とは思うたが、彼はすぐに口は開かずに下女を見下ろしたままだ。




息を整えるより先に、下女は桃さまの、と小さな声で言った。………彼女の名前が出てきたことに薬売りは驚いて僅かに目を見張る。攫われた桃。この下女は何故その名前を知って、薬売りに投げかけたのであろうか。───なんとも面妖な事態だ。




桃さんが、どうされました。………問うた。薬売りは気づいている。この下女の奉公する所に彼女がいて、桃の身に何かしらの都合の悪いことがあったのだ。だから、こうして自分を探し当てる羽目になったのだと。





随分都合のいいものだ。いきなり道すがらを攫っておいて、何かあればこうして縋ってくるのだから。………それでいてどうせ、桃の居場所や攫われた仔細を問うても答えないのだろう。ならば端から変な真似をしなければいい。




「く、薬をっ………桃さまが、いつも飲まれている、薬はっ………?!」




「────彼女に常に飲ませている薬など、ありませんが。どこも体は悪くないのでね」





「目を、覚まされないのですっ………それでは駄目なのですっ───」





これには薬売りも面食らった。桃が目を覚まさない。───それは彼女の心が、与えられた事実に追いつかなかった証だ。ぐるぐると四方に振り回されてそれでも気を確かに持てるほど、彼女は強くなどない。




何をしたのやら。何を押し付けたのやら。人の連れを攫っておいて、勝手な振る舞いだ。それに応じるほど薬売りは善人でもなければ、柔和な心も持っておらぬ。ここで突き放したらば、この下女はどんな風に叱責を受けるだろう。





仮にそれで薬売りが恨まれようが憎しと思われようが、平素の彼ならいっこう構わぬ。人の思いはいつも混沌で、そうとは自覚せずとも解れ絡まりいつ闇に堕ちても不思議ではない。……人は己が思うておるより崖っぷちに生きている。





が、今は桃が絡んでいる。彼女がこのまま岩戸に意識を隠していては、やがて取り戻せなくなる。───そうなれば、禍神の事告げを受けてなお彼女を連れて歩く、薬売りの行いは水の泡だ。それに──桃の深い懺悔や寂寞が連れてくるものは………いつか彼女をも呑み込むだろう。




薬売りの危惧していることが現実になってしまう。母の為、己が帰るため、薬売りがその来し方行く末を暴いて、あるべき場所へと導くため。………桃を連れて歩いているのは、そういう次第では無いのか?




「───人から連れを奪っておきながら頼るとは、随分と勝手なご主人で」




「っ、それ、は…………」





「しかしながら、桃さんがそうなって打って置かれても此方も都合が悪いのでね。………これを、彼女の側に置いておきなさい」





言うて薬売りは、小さな香炉を行商箱から取り出した。翡翠で作られた、手のひらに収まるようなそれからは、甘く脳の髄をじんと痺れさせるような………それでいて迷う心を手を引いて包み込むような嫋やかな薫香が、ある。




下女はそれを恐る恐る受け取った。一介の薬売りから、薬ではなく香炉が出てくるのだ。いったい何者なのだと言わんばかりの訝る眼差し。しかしながら、何かしらの手立てを彼から享受されねば帰れないのだし、また桃も目覚めない。





下女は薬売りに深々と頭を下げて、元来た道を走り去っていった。───甚だ不快なものだ。桃をどうしようとしているのか彼には預かり知らぬし、ぞんざいな扱いをしていないのはひと目でわかれど、少しくらいは彼女の今現在を報せてもよいのではなかろうか。




母のことを思い哀しみに耽るあまりに、またなにか呼び寄せてしまうのではないか。──そう危惧せずにはいられない。彼女がモノノ怪を呼び寄せているのでは無いのだろう。しかし、逆はどうであろうか。モノノ怪は桃の感情のあまりにも円らかなのに縋り、己の慟哭を理解してもらおうと…………。




「そろそろ、こちらも行かねば──戻ってこなくなりそうだな」





宿場町を徘徊するモノノ怪の気配。出処は分かっている。しかし未だ形は分からぬ。その荒れ狂う嘆きと───桃に手渡した香り袋の馨香とが、ひとつ同じ場所から強く薬売りの五感をくすぐるのだ。




助けて、という微かな声をかき消すように、かつては人のものであった怒りや悲しみ、憎しみ───それが桃が持っている香り袋で示している彼女のしるしを、覆い隠してしまうほど膨れ上がっている。こうなっては彼女がまた、翻弄し渦の目に引きずられてしまうだろう。




「今しばし、耐えてくれ──桃」







────桃、起きて。桃





お母さん?





それは母の声。懐かしい、私を愛して受け止め、逃げた私を気遣って、優しいままに死んでしまった母の声。……この時代に来てから、母の声は何度か私の名前を呼んだ。けれどいつも、その理由の答えを教えてはくれないままで。




どうして私を呼ぶの?お母さん教えてよ。どうして、私の名前を呼んでばっかりなの?私には分からないよ……。何か、もっと他に言ってよ。私寂しいよ、お母さん。私、1人で心細いよ、お母さん………。
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