書物

□座敷童子 一の幕
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酒の匂いと、人のざわめきと。あとはーーー客が運んでくる、かすかな雨を含んだ曇った匂い。立ち込める宿を、番頭……徳次はぼんやり見上げる。








雨のせいだろうか。今日はやけに人が多かった。急に降られたのもあるだろう。予想だにしておらず、あと一部屋で満員御礼。








早いとこ、床に就きたいなぁーーー。ま抜けた面で、徳次が大欠伸をかき、目をこすった刹那。








ギィーーーー。つったっていた彼の背後で、宿の表戸が開く。冷たい風と、雨の香り。足を撫ぜる時雨に、徳次は振り返った。








「薬売りさんよぉ」








やはり、ま抜けた彼の声。その呼びかけに反応してか、随分派手ななりをした、薬箱を背負った薬売りが、かすかに首をあげて見せる。








その異人のような淡栗色の髪に、女将は訝しげな目線をやり、ふんと鼻を鳴らす。何を思ってか。女将の耳たぶで、重そうな翡翠の耳飾りが揺れた。








「うちは、間に合ってるぜぇ?そんなとこにいられちゃあ、客が寄り付かなくなる」







ーーーーは他ぁ、当たってくんなぁ。冷たい態度。いや、世間の行商人に対する態度というものは、何処もこんなものだろう。








ざあざあと、雨が穿つ。外に立ち、ろくな温かみさえ感じない留袖をまとう薬売りは、いかに寒そうかは想像には難くなくて。








が、彼はそんなことは気にしてもいないらしい。いえ、いえーーーーと、彼はさして寒さを感じさせない、しかとした声色で否定した。








「宿を、一晩ーーーーお願いしたく」








すぅっと、ざんばらの淡栗色の髪の間から、秀麗な眼差しが女将をとらえる。おや、まぁーーー女将は図らずも、思わず頬を染めた。








最後の一部屋、客人来たれり。満足げに微笑んだ女将の視界に、薬売り以外の『誰か』の小紋の袖が映る。ちらり、それは薬売りの背後で、揺らめいた。








誰か、いるのかい?問う、女将。あぁ、と思いついたような薬売りは、背後に振り返りーーーその小紋の人物を、徳次と女将の前に引っ張り出した。








「すっかり、言うのを忘れてました。ーーー寒かろう、御室」







「当たり前だ。もう少しはきはき話してくれ」







艶のある黒髪に、鮮やかな髪飾り。小紋に合うようにか、真っ白な絹を頭からかぶった少女の顔立ちは、まるで異人のようにくっきりしていて。








惚けたように口をあけ、徳次は一も二も言わなくなる。そんな情けない様子の彼を、御室は意味深な流し目で見つめ、くすりと笑った。が。








なんだ、あんた異人さんかい。何故だろうか。いやにあたりの冷たい女将が、まるで彼女を毛嫌いしているが如く声色で、御室に問う。








それを言うなら、薬売りのほうがよっぽど異人のような顔だろう。何故、彼女だけ。眉を寄せる薬売り。がーーー御室は、さして気にするでもないらしい。








ええ、と笑い、ずっと伏せ気味だった浅葱の瞳を、はっきりと女将に向ける。その深い色の奥で、かすかに光がぱらぱらと飛び散った。








「ーーー異人。そうですね。一応、メリケンの血は通っています」







「そうかい、しかしあんたさんね。……部屋は一部屋しかないんだ。どうするんだい」







いやに、御室に冷たすぎやしないか。というより、たった今御室の口から飛び出した台詞に、薬売りは眉毛をひくりと跳ねあげる。








ーーーーそんなのは、初耳だ。








が、そんな彼はお構いなし。やはり異人と言えば異人らしい、くっきりした顔立ちの御室は、どうするんだ、と薬売りに振り返る。








野宿は御免だぞ。ふざけているのか否か、御室がほくそ笑む。はいはい、分かってますよ。答えた薬売りは、再び秀麗な眼差しを女将にむけた。








「二人一部屋でも、構いませんぜ。……いや何、こいつとはそんな関係じゃなくてね。疚しいことは、何もーー」








「あぁ、そうかい。あんたが言うならそうしようかね。徳次、部屋に通してやりな」







ーーーやはり、御室にだけ当たりが冷たいのは、決して薬売りの気の所為ではないらしい。女将の背中が、それを語っている。








まぁまぁ、良いさ。………さして気にも留めていない御室。彼女は徳次に続き、階段を上がっていく。








そうか、とは一概にも言えまい。苦々しい表情を浮かべ、薬売りもそれに続いた。
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