書物

□恋慕 一の幕
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ーーー雨が、降っていた。しとしとと降る雨が冷たくて、旅人の姿すら滅多に見かけないような、寒い夜。








大商家……猪島又吉の屋敷の木戸は固く閉ざされていて、時雨が強く叩きつけていた。ざあざあと、やけに騒がしくて。







二代目又吉こと……吉衛門は、寝付けないと何度か閨で寝返りをし、あまりの雨のうるささと奇妙な寒さに、身を震わせていた。








ーーー良く分からん夜だ。








もうすぐ冬だというのに、屋敷に降る雨の音はいやに五月蝿く、野分のそれのようで。妙に、心が落ち着かないのを、吉衛門は覚えた。








その、刹那である。ーーー雨の中、誰かが屋敷の戸を叩く音。こんこん、こんこんと。時雨に混ざり、微かに屋敷に響く。こんこん、こんこん。








叩いているのは誰か。声はーーーあまりに時雨の音が大きすぎるものであるからか、虫の音ぐらいすらも耳には入ってこない。……行くか。吉衛門は、夜着に羽織を着て、立ち上がる。








おい、誰か明かりを。吉衛門がいえば、まだ寝ていなかったらしい使用人が燭台を持ってきてーーーーその声聞こえぬ客人の姿を見るために、吉衛門は木戸をガラリと開けた。








「はて、どちらさまで……?」







「ーーー申し訳ありません。雨で、道を間違えてしまいまして」








木戸の前に佇む、赤い唐傘。いつから雨に打たれたのか、その緋色の傘はーーーすっかり雨に濡れて、ぬらぬらと怪しく夜に輝いていた。








その下に佇む、紅色の着物に、石灰色の袴。本当にいつから濡れていたのか知らず、肩や袴の裾はびっしょりと濡れていて、その人物のものらしい、男にしては高めの声も…寒さに打ち震えていた。








はぁ………そりゃあ、気の毒で。自分も外の寒さにあてられ、吉衛門はかたかたと肩を震わせる。……どうか。それに反応してかーーーー傘の下の人物が、ゆっくり顔を上げた。








「一晩、泊めてはいただけないでしょうかーーーー?」







「っ……!!!!」








高く結い上げた、馬の尾のようにしなやかな黒髪。少年だろうか、やや大きめな瞳や、眉上で切り揃えられた前髪。くっきりとした目鼻立ち。薄く唐紅に染まる、唇。








ーーーー唐傘をさす袴姿の少年は、まるで歌舞伎役者のように美しく、えてして水が滴るほどに、艶っぽくて。








返事をすることすら忘れ、吉衛門はその秀麗な面持ちの少年を見つめていた。
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