書物

□海坊主 一の幕
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驚く加世の視線に気づいたのだろう。御室はちらりとだけ加世を見やってーー……屋敷にいた時と全く変わらない、少し眉を寄せた笑顔を浮かべる。








その笑顔。なんだか辛くて、加世がかける言葉を失った刹那には、御室は幻殀斉に目線を戻し、笑みを浮かべていた。








「ふむ……身共は貴殿に会ったことはないのだが……」







「えぇ、私もお会いしたのは今が初めてにございます」







「………では、何故?」








顔も知らないような相手の名を、ぴたりと言い当てることができたのか。自己紹介はまだしていないし、そもそも船に乗り込んだ時には、御室はいなかったのだから。








皆様のこと、よく分かっております。ーーー御室が、笑う。やはり何も変わらない。きりりとした横顔も、立ち振る舞いも。………あの時から、まるで時が止まったよう。








いや、加世がそう感じているだけかもしれない。恐らく御室の中では、もうあれは過去のことなのだろう…………と、加世は勝手に思っている。








そんな思案をする加世をよそに、御室はさっきから幻殀斉のご機嫌取りに徹していた船首に目をやり、やはりにこりと笑った。








「貴方様は、三國屋多門様。これは御朱印船だったのでしょう?江戸に出て、新しい商いでも」







「い、いかにも私は三國屋に御座いますが………」







「そちらのお侍様は、日置藩の佐々木兵衛様。………お腰に携えられているのは、九字切兼定かしら?ーー随分、共にされたようですね」







意味深な言葉。ぴたりと事実を言い当てられてなお、佐々木とやらは彫刻刀で黙々と木皿のようなものを彫り続けている。








が、彼は思い出したように御室の顔を見ると、左様、とだけ言ってまた、木皿に目を戻してしまった。








無愛想かつ、不躾極まりない。……が、御室が気にする範疇であるはずもなく、彼女は次に階下に目線をやり、人影に微笑んだ。








「五大寺の僧侶……源慧様にございますね。となりのお方は……たしか菖源様だったかしら」







「いかにも、この方は源慧様にございます」







若葉色の袈裟を着た若い僧侶が、源慧というらしい、いかにも高名そうな僧侶に目線を向ける。ーーー源慧とやらは、無反応だが。








む、では其方は?ーーー思い出したのだろう。幻殀斉が、加世と御室を交互に見やる。御室は少し、困ったように眉を寄せて笑い、彼女は、と言った。








坂井のお屋敷で、以前一緒に仕えておりました。ーーーねぇ、加世?御室が言う。ああ、覚えていてくれたのだ。………彼女は、加世を。








坂井という名前に思うところがあったらしく、幻殀斉はおや、と片眉あげる。……それをしい、と人差し指を口の前に宛てがって制すると、御室は独特の、やはり困ったように見える笑顔を彼に向けた。








「御室様……!!覚えていてくださったんですか!?」







「…………忘れるわけが、ないだろう。加世。ーー元気にしていたか?」







「あ、私は元気です!!!ちゃんと生きてますよ!!」








思わぬ再会。変わらない面影。加世は思わず御室の体に抱きつき、御室の細い体が少しよろめく。ちりん、と、彼女の耳飾りについた鈴が音を立てた。








久しぶりだな、加世。………生きていて、良かった。ーーーー耳元に響く、懐かしい声。最後の最後まで、坂井を守ろうと身を呈し続けた、懐かしい姿。








言葉も忘れ、加世は御室の加賀友禅に顔をうずめる。御室もやはり懐かしそうに目を伏せ、加世の背中をとん、とん、と叩いた。








が、事情が良く分からない幻殀斉たちには、なにがなんだかさっぱり分からない。彼は代わりに、船内をぐるりと見渡して………あぁ、と声をあげた。








「どうやら、もう一人、客人がいるようだ」







「もう、一人………?」








はて、いただろうか。幻殀斉の目線の先。つられて、加世も上を見上げれば。
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