書物参

□雨が堕ちる
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でも、だからって。出来なければ誰を頼るというの。何故か心の中で薬売りさんに逆上に似た感情を覚え、着物の牛車の柄を睨みつける。









すると薬売りさんはゆっくりした動作で立ち上がると、衝立を回り込んでこちら側に踏み入り、私の手から着物を受け取る。そして…やっぱり無感情な目をこちらに向けて、言った。









「女性の着替えを見るのは、趣味に価しないのですが、ね。致し方ない」









「………すいません」









「一回で覚えろとは言いませんが、おいおい感覚で着替えられるように」









子を咎める親のような口調に、私の胸の奥が沈む。いつか私も、母にこんなふうに着替えを手伝って貰っていたのだろうか。母がいない事実を、改めて突きつけられて。









何も言葉が出ずに黙った私には構わず、薬売りさんはもう一本腰紐を取り出す。淡々としていて、無駄がない。まるで彼の本質を現しているかのようだ。というか、本質が行動に出ているに違いない。









腕を上げて。言われるがままに袂をつかんで腕を上げると、腰紐のはしを掴んだ薬売りさんの腕がお腹に回る。それと同時に彼の横顔が私のお腹にくっついて、思わず身を後ろに引いて身構えてしまった。









あ、と思った。思ったのは薬売りさんも同じだったらしい。こちらを見上げ、腰紐を器用に結びながら口の端を吊り上げる。―――これだ、この笑い。私を見透かすような、悪い笑み。









「そんなに身構えずとも、手を出したりはしませんよ。ご安心を」









「そ、そんなこと考えてませんから……!!」









「ほう、こりゃ失敬。そんなに顔が赤いものですから」









私が疚しいみたいな言い方をされ、ついムキになる。でも薬売りさんは一切表情を崩さない。私の反応なんて手の内に読んでいて、あえてそれを楽しんでいるかのようだ。









次、おはしょり作りますから。―――どこまでも淡々としている。私がまた憤りを感じているあいだに、薬売りさんはてきぱきと赤い着物を私に着せ、綺麗なおはしょりを作った。









思えば、着物なんていつぶりだろう。振り返れば、ちゃんとした着物を着たのは成人式以来かもしれない。私は振袖なんて断固反対だったのに、どうしても娘の晴れ姿を見たがった母は、自分の着物を縫い直して着せてくれた。









淡い桃色の振袖。鞠や牛車の描かれたあの着物は、今何処にあるんだろう。母が連日連夜縫い直してくれたところには、まるでちぐはぐな色の糸が裏地にくっきりと出ていた。









「………他所なことを考えていると、ついていけなくなりますよ」









しばらく物思いに耽っていた私を、薬売りさんの声が引き戻す。慌てて彼の手元を見下ろすと、それでも彼は自らのペースでひらひらの帯をむすんでいて、私に合わせようなんてしていない。









どうやら、薬売りさんにはなんでもお見通しらしい。涼しい顔をして、いつだって的確なところを突いてくる。……やっぱり、苦手な人だ。









またお腹に手が周り、顔が近づく。すると薬売りさんは急に立ち上がると、私の背後に回り、襟をつまんで後ろにぐっと深く抜いた。一気にうなじが寒くなる。









「どうしたんですか…?」








「女性のうなじの出ていないのは、あまり好きでなくてね。こうした方が、随分良い」








「…………」








つまり、どういう。聞きたいけれど、やめた。それでまた疚しい女だと思われても嫌だし、きっと彼は誰にでもこんなことを平然と言える人だ。特別な意味なんてない。








そのまま衝立の向こうに消えた薬売りさんは、抜いた襟を戻そうともしない。当然直し方なんて知らない私は、ただされるがままなすがままにするしかなくて。









この人は、何を考えているんだろう。そのぴんと背筋の伸びた後ろ姿を見ながら、私は一人形容のしがたい不信感に襲われた。
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