書物参

□霧中に堕ちる
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お母さん、私ひとりで頑張ってるよ。頑張ってるけど、それでもお母さんと話がしたい。もっとたくさん、言葉を聞きたい。ねぇ名前ばっかり呼ばないでよ。ずっとずっとずっと寂しいの、ねぇ分かってくれるでしょ?







母はいつも何も言わなかった。名前を呼ぶばかりで、私の呼び掛けには決して答えてくれないまま。私は母の声の続きをいつも待つけれど────その期待は、希望は裏切られるばかりで。





何か言ってよ。もっと、私を安心させる言葉を─────。夜空にくっきりと浮かぶ月がどうしたって掴めないように、私も母の背中を掴めないまま、ここに。それはいつでも私の視界を曇らせ心を曇らせ、何をしていても晴れることは無かった。





お母さん。あなたに会いたい。




────桃



ふと、私の名前を囁く別の声がした。微睡みからゆっくりと手を引いて背中を摩るような、穏やかな声音。私には聞き覚えがある。その声に名前を呼ばれたことがある。この時代に来て些細なことに揺さぶられる感情を、なんとか凪のように宥めようとしてくれる───。




「薬売り、さん…………」




目を開けて。いつまでもこの孤独の中にいてはいけない。そこにいては助けられない。…そう、薬売りさんの呼び掛けが、私を揺り起こしている気がした。孤独?……そうだ、孤独。目を開けても私は1人きりだ。貴和さんの代わりとして存在しているだけの傀儡。




けど、このままこの隔絶された暗がりにいても、薬売りさんは来てくれない。ここは私の意識の中。目を閉じてうんと遠いところ、心よりももっと深いところ。───膝を抱えて蹲る私自身を、私が見つめる不思議な場所。




目を開けて。………もう一度、薬売りさんが言った気がした。それは囁きよりも小さなものだ。雑音にも紛れそうな微かなもの。私は思わず何も無い虚空に精一杯手を伸ばした。ここから抜け出す為に。………せめて傀儡としてあと3日を生きる為に。




────桃



薬売りさんか、母の声か。誰かの声が優しく私の背中を押して持ち上げ、誰かの声が上から私の腕を掴んで引き上げる。……ねぇ、お母さん。あなたがつけてくれた名前で、私を安心させて。私は誰かの代わりじゃない、ひとりのれっきとした人間だと言って。………突き刺さるような孤独を、生きるために。




───桃




あぁ、………それでいいの。今はそれでいい。いつか話そう。わたしと、お母さんのふたりで。あえなかった時間のことも、それからのこともこれからのことも。わたしね、薬売りさんとであってからお母さんにはなしたいことがたくさんあるの。──ねえきいてくれるよね?





暗闇が開けようとしている。光の天幕が顔にかかる。───目を開けた私は、貴和さんの代役だ。また泣きそうな目にばかり遭うだろう。でも、けれど。………耐えていればいつか薬売りさんが助けに来てくれる。私にはそう確信できる。




「っ桃さんっ!!──あぁ、よかった………突然倒れるものだから、肝を冷やしました」




薄らと目を開けると、佐兵衛さんが私の顔を覗き込んでいた。………そうだ。私は髢をつけられて気を失っていたんだ。布団に寝かされたままぐるりと目を動かすと、おかやさんやおなみさんが、心配そうに私の顔をみている。




お母さんと、薬売りさんの声。───二人が私をの目を覚ましてくれたんだ。そう思わずにはいられない。あのまま妙に居心地のいい暗闇にひとりいたなら、きっと肉体のあるこの私は死んでいたんだろう。




ゆっくりと体を起こして、深いため息をついた。首筋や背中にまとわりつく黒髪が、傀儡人形としての役目を忘れるなと釘を刺している気がする。……私はまだ髢をつけた私の姿を見ていないけれど、そこに映る姿を自分と視認できる自信は、ない。




「こちらも揺り起こしたり、家にある漢方を飲ませたりしたのですが、全く駄目で………。桃さんのお連れの、薬売りの方を頼って香炉をもらって来ました」




「………薬売りさんの?」




「おかやに桃さんが普段飲まれている薬はないかと、取りに行かせましたが───薬ではなく香炉とは、驚いたものです」




私はこの人たちが考えていることがますます分からなくなった。───薬売りさんの元から連れ去ってここに私を置いているのに、薬売りさんを頼るなんて……4日立てば帰してもらえるものだとしても、薬売りさんの心象はどうなんだろうか。





そこまでして、薬売りさんに頼ってまで、どうしても私に目を覚ましてもらわねば困るから。────考えれば考えるほど気味が悪い。隣に座っている佐兵衛さんが、この世のものじゃない悪魔に見えてくる。




けど、薬売りさんの香炉がなければ私は目覚めないまま永遠にあそこに囚われていた。……母の優しい呼び声。薬売りさんの呼び声。2人の声に持ち上げられて見た光。──薬売りさんは、きっと助けに来てくれるのだと、信じられる気がする。




「───そう、なんですね」




「けれど、本当に目が覚めてよかった。………あと半刻で社に行かねばならないのですが、立てますか?」




「……1人で立てます。もう大丈夫ですから」





差し出された佐兵衛さんの手に首を横に振って、私は立ち上がった。その場にいる皆の眼差しが突き刺さる。どんな気持ちで私を見ているんだろう。………私は桃というひとりの人間だ。ここにいる誰にも、左右されたくない。





脳裏に貴和さんの笑みが過ぎった。───可哀想な貴和さん。生きているのに、もう生きられないと笑った貴和さん。私は彼女の痛みを他人事だと突っぱねることが出来ない。けれどそれは、私が私でいられなくなる序章なのだろうか。───この屋敷で唯一私を桃と見てくれる、貴和さんの感情。





それは私を飲み込む濁流なんだろうか。
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