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 がやがやと人の話す声。雑踏。カラフルな看板。カラフルな衣服。カラフルな髪の色に、黒いアスファルトを踏み荒らすカラフルな靴。眩しい。太陽の光を反射して吸収して、様々な色が、極彩色が、自然色が、蛍光色が、パステルカラーが、無秩序に好き勝手に視界を彩る、雑踏。眩しく彼の目を細めさせる、雑踏。サングラスとマスクだけではとても防ぎきれない輝くばかりの眩しさと息苦しさが溢れている。光は色をより鮮明に、そして黒い影の輪郭をより明確に描き出す。

――夜の闇も、昼の光も、病的なことには変わりはない

 肺を焼くような熱気に朦朧とした心地で、ただ黙々と歩を進める。真夏に似つかわしくない黒一色の衣服を全身に纏う男を、すれ違う人々は時折奇異なものを見るように一瞥し、しかしそれ以上の反応を示すことはなく、また雑踏に紛れて見えなくなっていく。その視線も、その声も、その表情も、全てが背景でしかない。
 主役のいない風景。歩く男の鑑賞する風景には、誰もいない。極彩色の乱舞も、モノクロの砂漠の景色と大差ない。そこで蠢く人がどんな人間で、何を考え、どんなものを背負っていようと、彼には関係ない。
 天を串刺しにするように聳え立つビルの群れが、眩い光を反射する。太陽光線にじりじりと焼かれるアスファルトの上で、閉じ込められた気流が粘っこく淀んでいる。背中を汗が伝った嫌な感触に眉を顰め、ふと、手に持った脂紙の袋が汗でふやけて破れはしないかと、心配になった。


 大袈裟に値引きを叫ぶ若い店員の熱気の後ろから、かすかに冷たい空気が吹き付けた。冷気の誘惑に歩く足の動きが鈍る。逡巡したのは一瞬だけで、何か冷たい飲み物でも買おうかと男は店の中に足を踏み入れた。
 商品がぎゅうぎゅうに詰め込まれた狭苦しい店内の端に飲み物の冷蔵庫を見つけ、何にしようかと立ち止まる。その硝子の扉に、背後にいる客が映っていた。黒髪の、高校生ほどの少女だろう。さして気にせず飲み物を手に取り、会計に向かおうと踵を返す。
 少女は何かを探しているらしく、棚の前にしゃがみ込んでいた。


 本当に、何となく、何かが気になって振り返った。振り返った男には気づかず、立ち上がってこちらに背中を向けた少女の手が、何かをカーディガンのポケットに入れた。
 少女は冷蔵庫の中からペットボトルのジュースを一本手に取ると、ごく平静な顔でレジに向かっていく。


「それを買うのか?」

 少女はぴくんと肩を震わせて男の方を振り返った。
 男は無言で少女の手からペットボトルを取り上げ、少女のカーディガンのポケットを目で指した。
 それだけで察したのだろう。少女はおずおずとポケットの中に入っていたものを差し出した。

 箱入りの包帯だった。
 全てまとめて会計を済ませ、受け取ったビニール袋の中から自分の分のペットボトルを取り出し、残りを袋ごと少女の手に押し付ける。そのまま立ち去ろうとした男の背中を、少女が呼び止めた。


「――ねえ、おじさん」


 淀みに一滴落とされた透明な声が、平坦な背景に波紋を描いた。

 男は無表情のまま振り返る。
 その呼ばれ方がいかに不本意なものであろうと、目の前にいる少女相手に訂正を迫るのはあまりに不毛で馬鹿らしいことに思えた。
「お礼に、あたし、どう?」
 足を止めた男の行く先を遮るように回り込んで、少女はその口元に薄い微笑みを張りつけて言った。

「俺が金を持っているように見えるか?」
「貧乏そうには見えなかったんだけどな」

 平静な瞳にあるのは自信か。値踏みするような無遠慮な視線と、少女には似つかわしくない作り物の媚びた色気。それらの元を辿ると、不自然なまでに真っ黒な瞳とぶつかった。切り揃えられた前髪が黒い瞳を強調している。この暑い中、学校の制服の上に長袖の黒いカーディガンを羽織っている。袖の先から覗く指先も、スカートの下から伸びる腿も、黒い髪に包まれた顔も、色素を持ち合せていないかのように真っ白だった。



 真夏の白い光の中に一滴落とされたインクの染み。
 じっと少女を見下ろして、そんなことを考えた。










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