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悪魔とは何か。
人、あるいは人に味方する存在と敵対し、災いをもたらすもの。または、災厄そのもの。善なるものをおとしめ、人を誘惑し、堕落させる、煩悩。そんなイメージだ。

(もしも、この世界に悪魔がいるとしたら)

じとりと湿り気を帯びた空気に、ひげがひくひく震える。

(それは、とても美しい姿をしているのだと思う)

そう、この男のように。

(フキツ)

 何の前触れもなく玄関先に現れる、凶兆を運ぶ迷惑な来訪者のように、びっしょりと雨に濡れた黒髪を垂らし佇む男を、黒猫はじっと見下ろした。


「傘は?」
「ない」

 室内は強盗にでも荒らされたのかという惨状。何を思ったか朝から部屋の大掃除を始めて時がたつごとに室内を混沌へと変えていく部屋の主が、ずぶ濡れの来訪者を見て呆れた顔をした。
 部屋の主によって風呂に追いやられ、濡れて冷え切った体を温めた悪魔は、今は掃除の邪魔にならないようにベッドで小さく蹲って、黒猫と共に部屋が荒らされていく様を眺めていた。この混沌に再び秩序が訪れるには、まだ当分かかるだろう。
 曰く、やるべき仕事がはかどらない時、何故か掃除をしたくなる、世の中にはそういう習性をもつ人間がいる。要は現実逃避で始まった掃除なのに、いつのまにか本気になってしまったらしい。

 用事があったわけでもないのか、悪魔は無言でじっとしている。時折黒猫に向けられる視線がどこか疎ましげに感じられることには気づかないふりをして、黒猫はのんびりと毛づくろいに勤しむ。
 その視線は、たぶん嫉妬だ。少し前まで、このベッドは悪魔の居場所だった。そこに我が物顔で陣取られることが不快なのだろう。しかし、たかが猫に嫉妬するのが恥ずかしいという葛藤も感じる。

(ナマイキだ)

 悪魔は知らないが、黒猫は悪魔よりこの部屋の主のことを遥かに知っている。そして悪魔が黒猫のことを知っているよりも、黒猫は悪魔のことをたくさん知っている。この悪魔の背中に、片翼をもいだような形の爛れた傷跡があることも知っている。そしてそれに対になるような位置に、今は黒い翼の刺青が刻まれていることも。

 かつて閉じこもっていたこの部屋から外へ出て、少年は「悪魔」になった。かつて少年の居場所であり帰る場所であったところからいったん離れてしまったら、なぜか「帰る」ことができなくなってしまった。
 居場所は変わりゆく。悪魔は世界を広げ、新たな居場所を見つけた。けれどまだ、ここに「帰りたい」という気持ちがあるのか。帰りたいなら、何故離れてしまったのか。

(悪魔の心は複雑だ)





「お、何だこれ、懐かしいな」

 何だも何も、男の右手に摘まれたそれはどうみてもくすんだ銀色の指輪だった。左手の人差し指、中指、と嵌めてみて、指輪はあつらえたように薬指にぴったり収まった。

「婚約でもしたの?」
 それを眺めていた悪魔がぽつりと尋ねた。

「……昔、プロポーズされた」
「え?」
「ような気がしたんだけど」

 現在、彼は未だに気ままな独り身である。

それ以上語らぬまま、部屋の主は薬指に指輪をはめたまま何事もなかったかのように掃除を再開した。悪魔はそれ以上追及せず、部屋の主を眺めるのをやめ、枕に顔を埋めて目を閉じた。
 



夕方頃、やっと掃除が一段落して、不貞寝していた悪魔を起こすと、一緒にご飯でも食べに行こうかとふたりで出かけていった。その後、悪魔は自分の家に帰り、時貴だけが戻ってきた。
すっきりした部屋で一服しながら、時貴は黒猫の頬を撫でる。その手には、まだあの指輪が嵌まっていた。

「お前、なんであいつの前だと喋んないの?」
「それを疑問に思う君の感性にびっくりだよ」

 猫は普通人の言葉を喋らない。その常識に従っただけだ。

「だって、俺はそれに慣れちまったから、それが普通だしな」

 悪魔も最初は驚くだろうが、慣れればそれが当たり前になる。だが、彼と喋れるようになると、面倒なことになりそうな予感がする。なんとなく。
 何にせよ、闇雲に喋る猫の存在を人に知らせるのは気が進まない。彼らの普通が守られるのはこの狭い世界の中だけだ。常識では存在しないはずのものが当たり前に存在できるこの世界を守ってきたのは、部屋の主であるこの男だ。時貴がいなければ、この「普通」は保てない。
この小さな世界で幸せだった少年は外に出て悪魔になった。


(外の世界で悪魔は幸せになれるのだろうか)
(いつかその時が来ることを祈る)








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