under the rose
□chapter.32
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ザクッ。
土を抉るような鈍い音が耳に届いて、腰を浮かしかけていたクザンのコートの裾がぐっと引き攣れた。その衝動で、情けなくシートに尻もちをつく。
「へ?」
間抜けな声を上げたクザンの肩から、引っ掛けていただけだったコートがずり落ちる。嫌な予感がして突っ張りを感じたところに目をやれば、真っ白なコートを地面に縫い止めるように深々と、一振りの刀が突き立っていた。その柄を握る細腕は、言うまでもなく……。
「おまッ、上司のコートに刃っ、」
「……てことはですね、大将殿。もしかして、御歳いよいよ五十……?」
いや、コートに穴。青褪めるクザンの言葉などまるで聞いていない様子で、たしぎが言葉をかぶせてくる。
「いや、四十五だから! やめてよごそっと嵩ますの。これでも気にして、」
「ああ、なんてこと……」
「何が?」
演技がかった仕草と口調で絶望を表現してみせるたしぎに、漠然としたモヤモヤとイライラが募る。
「もはや、人生の半分折り返したっぽいですね……」
「バ、バカ言え! まだ三分の一ってとこだ!」
「なるほど、大将殿は百三十五まで生きるおつもりなのですね……。凄まじきかな、生への執着」
「うるせェほっとけ!!」
絶妙にこちらの神経を逆撫でするたしぎの絡みトークに、クザンもそろそろ限界だった。相手が男なら拳で黙らせるところだが、女相手にそうはいかない。
ああ、そうか…。
雲が晴れるように唐突に、クザンは悟った。ここではきっと、正気でいた方が負けなのだ、と。
「チクショウ……っ!」
今夜はラゼルちゃんと紳士的におしゃべりしたかったのに……。マジでたしぎの奴! ていうかスモーカーのバカヤロウ!
こうなれば、もうヤケだ。
クザンはすぐ傍に置いてあったつるの土産の酒瓶を掴むと、手酌でグイグイとあおり出した。
「わぁ、大将殿、男前!」
たしぎのはしゃいだ声が、桜をちりばめた夜空に高く吸い込まれていった。
「なぁ、たしぎ、おれとお前は……上司と部下、だよな」
とっくに酒瓶の中身は空になっていた。そこここでは、海兵たちが調子っぱずれな舟歌を大合唱している。頭上では、ピンクにけぶる視界が怪しく渦巻いていた。
「ヒっ……ク」
酒には強い方だという自負はあるが、いかんせん飲み過ぎた。つるの土産の純度の高いアルコールが胃の中でグラグラと燃えている。酔っぱらいのようにひとつしゃっくりをすれば、隣のたしぎも危なっかしく体を揺らしていた。
「どーれしょうか……。まぁ、上司と部下の定義にもよりますね。なんですか、急に」
「いや、定義も何も普通に上司と部下だからね。……まぁちょっと聞きなさいよ。おれ、お前に相談があってよ……」
一方的に実のない話を聞かされ続けたお返しだ。こうなればこちらも好き勝手吐き出させてもらおうかと怪しい方向に思考がまとまったところだ。どうせお互い酔っぱらい。何を話したところで、明日になれば忘却の彼方であろう。
「相談……? ああ、ご自分の葬儀を誰が仕切るか、でしょうか?」
「違うわっ!」
性懲りもなく突っ込んだ後に、クザンは浅く息を吐いて決意した。
「なぁ……、おれは、世の女からするともうおっさんか? その辺の港に転がってる汚ねェおっさんらと一緒か?」
手始めに、今まで密かに気にしていたことを、思い切って口にした。自意識は高いが、図々しくはなれない微妙なお年頃なのだ。こんなこと、気にしてると思われること自体が恥ずかしいから、普段まず口には出さない。さすがに自分のことを若いとは思わないが、女性からしてこのくらいの年齢の男はどう見えるのか、実際のところどうなのだろう。こんな状態のたしぎに聞くのも馬鹿らしいが、かえって本音を聞ける可能性だってある。
たしぎは一瞬ぽかんとした後に、うんうんとクソ真面目に考え込んでいる。やめてくれ、そんなに真剣に考えるのは。この間をやり過ごすうちにどんどん恥ずかしくなってくるから。
「うーんと……クザン大将は、汚いオジさんというか……。モジャモジャのオジさんですね。更に言うと、もじゃもじゃでのっぽのオジさんです」
「んだよそれ……」
オジさんを連呼するたしぎの失礼な物言いは置いておくとしても、なんとも微妙な答えが返ってきた。
「でも、もじゃもじゃもじゃでのっぽのオジさんは、普通のオジさんより目を引くと思います。なんというか、二度見せずにはおれない類の妙な魅力が……」
「お、おお、そうか?」
これは、肯定か? 励ましか? 否、貶されてる系か?
やっぱりこいつに聞いたのが間違いだという思いが膨れ上がってくるが、ここまできたからにはもう少し吐き出させてもらおうじゃないか。酔いが回っているからなのか、今、無性に誰かに話を聞いて欲しい。オジさんの、どうしようもない色恋ネタを……。
「たしぎよォ……。どうやらおれは今、恋をしてるらしい」
とうとう、言ってしまった。たしぎが目を丸くして、かすかに息を詰めた。癖なのだろう、そこにはない眼鏡のフレームに触れようとし、スカッと指が空振りしている。
「お……オジさんに?」
「オ・ン・ナ・に」
アホか。なんだその返答は。
「……スミマセン、オジさん。私ふざけちゃいました。今の、もう一回お願いします」
「オジ、……いいやもう。
……おれ最近さ、すごく気になるコがいるんだけど、この胸のドキドキをどうしたらいい?」
そう、話したかったのはこういう話なんだ。自分は今恋をしているんだ。若造みたいに……。
アルコールによって巡りのよくなった血流が、余計に速度を増してドクドクと流れる。こんな感覚、一体何年ぶりだろうか。