under the rose
□chapter.34
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「もうっ、大将殿っ、腰がっ……、重ーーい!!」
絶対にたしぎの言う通りにはするまいと、クザンはシャツのボタンが胸まで千切れ飛んでいるのにもかかわらず、その場所から腰を上げなかった。そうなるとたしぎも俄然腕に力を込める。もはや意地のぶつかり合いだ。
「ふふ、いくらなんでもこのおれに力で勝てると思うなよっと……ぅおっ!?」
胡座に腕組みをして、自分を漬け物石だと信じ込む。すると、女とは言えぬ力で襟を掴み上げていたたしぎが、急にその手を離した。彼女が引っ張る方とは反対の方向に体重をかけていたクザンの体が大きく傾いて、崩れるようにシートに転がる。
「ふん、まったく情けない……。でも、このたしぎ、こんな重要な任務を引き受けたからには、このまま黙って引き下がる訳にはいきません! 作戦変更ぉーーっ!」
「……へ?」
誰がいつ任務など命じたというのか。だか、激しく揺さぶられた脳は、即座に彼女の言葉が理解出来なかった。
「行けないってんなら呼べばいい! だろ!?」
「お、」
お前、なんだその男前なセリフ。
嫌な予感に神経は逆立っているのに、鈍った脳が指令を受け付けない。すうっとたしぎが肺に息を送り込むのを、クザンはただ呆然と眺めるしかなかった。
「ラゼル大尉殿ーーーーっ!!」
酔っているとは思えない程に明瞭な声で、たしぎが叫んだ。味方全体に伝令を飛ばすときのような、素晴らしく良く通る声量に、会場に居た者たちがハッと息を詰める。思わず背筋を伸ばし、額に手を当てる者までいた。
「えっ? はいっ……!」
ザザッ……と音がしそうなほどの視線の矢が一カ所に集まった。
「積んだ……」
彼らの視線が向かう先、名を呼ばれた本人が戸惑うような返事を返したとき、クザンはもう取り返しがつかないところまで来てしまったと、この世の終わりを悟った。
「お話中いきなり申し訳ありません! 貴殿に重要かつ緊急のお話がございます。本来こちらが出向くところなのですが、少し事情がありまして、現在それが困難な状態にあります。大変申し訳ありませんが、こちらまでご足労願えませんでしょうか?」
酔いを一切感じさせない淀みないたしぎの口調に、周りは何事かとざわついている。まさかこんなところで作戦会議をするつもりなのかと、その勤勉さを讃えるような囁きまで聞こえて来るではないか。こんなおおっぴらな場所で何が作戦会議だバカ野郎。
「……わかりました」
だが、そのただならぬ雰囲気に、ラゼルも何事か感じ取ったようで、傍で彼女の手を握って相好を崩していたスケベ将校からやんわりと自分の手を抜くと、極上の笑顔をその場の者たちに振りまいてから、立ち上がった。
「申し訳ありませんが、少し失礼しますね」
完璧な笑顔に、周囲からはほうと溜め息が漏れる。
ラゼルはすっと立ち上がると、ぼこぼこと岩礁のごとくひしめく海兵たちの隙間を縫うようにして歩いて来る。背筋の伸びた、百合の花のような立ち姿に見蕩れる。今日は白のタイトスカートだった。膝少し上の安全ラインなのに、ぴったりとしたストレッチ素材がその美脚を艶かしく浮かび上がらせている。モデル張りの見事なキャットウォークで、完璧な美貌の女がこちらを目指しやって来る。まるでこの場がファッションショーになってしまったかのように、彼女のところにだけスポットライトが当たって見えた。誰もが息を飲んでその一挙手一投足を見守っているのがわかる。
「あ、ほんとに来た」
「ア?」
横で、たしぎが間の抜けた声をぽつりと漏らした。見ると、嫌に青い顔でラゼルの姿を凝視している。
「ど、どうしましょう、青雉殿……」
「いや、どうしましょうってお前が、」
「なにあれ同じ人間ですか? 美し過ぎる……」
青くなった次にはぽーっと顔を赤らめて、たしぎがぶつぶつと呟いている。
ほんとにどうしてくれるんだこの状況。ラゼルがここに来た瞬間、自分はどうすればいい? 酔っぱらい(たしぎ)のおふざけだったとうまく誤摩化せるのか? いや、この異様な空気の中でそんな馬鹿なこと言えやしない。彼女は本当に重要な話があると思ってやってきてくれたのに、そんな適当なことを言えば絶対に空気が凍る。部下の女海兵とよろしくじゃれ合っていたスケベ男だと軽蔑されるかもしれない。そんなしょうもないおふざけに巻き込まれただけなんて、彼女じゃなくても気を悪くするだろう。ラゼルの白けた冷たい視線は、それはそれで味わってみたかったが……いや、ダメだ。それでは彼女との未来が紡げない。
「ああ、目が眩みそう……」
たしぎが眼鏡を外し、レンズをぐいぐい擦っている。
「おれも、そろそろ倒れそう……」
淡い薄紅色をバックに、婉然とした足取りでこちらに向かって歩いて来る天使を前に、酔っぱらい二人はもはや思考することを放棄しかけていた。
「あ、あかん……」
クザンはぶるりと頭を振ると、美女から目を引き剥がして必死に考えを巡らせた。ラゼルはもうほんの目の先まで来てしまっている。そうだ、とりあえずはたしぎを黙らせなければ。このゴリラはなにがなんでもおれの気持ちをラゼルに伝えようと出しゃばってくるだろう。呼び出したことへの言い訳をしているうちに、またあの大声でやられそうだ。みんなが注目する中で公開告白(代理)なんてまっぴらゴメンだ。
「なぁ、たしぎ、ちょっと座んなさいよ……」
「……」
クザンは仁王立ちするたしぎに声をかけるが、まるで聞こえていないのか、応える様子はない。ならばと彼女のシャツを掴むつもりが、こんなときに限って手元が怪しく泳ぎ、やっと掴んだのは無骨な金属の感触だった。
「たしぎ! いいから座れって……ん、アレ?……」
「や、ちょっと、それ……!」
「、へぶっっ!」
やけに女っぽい声を聞いたかと思った瞬間、側頭部に刀の鞘が叩き付けられた。
「あ、しまった……!」
間違えて刀の柄に触れてしまったクザンに、慌てて振り返ったたしぎの腰の刀の鞘が、横薙ぎにヒットしたのだ。
「た、大将殿申し訳ありません……! 刀に触られるとつい過剰反応しちゃって」
「つい、とか言っても全然可愛くねェぞ……ってて」
「スミマセン〜〜……」
「どうしました?」
さきほどの勇ましさはどこへやら、おろおろとクザンに近寄ろうとするたしぎを手で制したところで、すぐ傍から声が振ってきた。ややハスキーなたしぎのものとは違う、あの美しい声が。思わず顔を上げる。
「わっ、ラゼル大尉っ!!」
「ぶべっっ!!」
見上げた矢先、今度は後頭部に衝撃。クザンからラゼルの方に向き直ったたしぎの刀の鞘・リターンズである。クザンはしばし言葉もなく悶える。
「たしぎ、てめェ……」
「お呼び立てして申し訳ありませんでした!」
呪詛に似た呻きが口から漏れたが、その声はたしぎに届くことはなく、彼女は完璧な敬礼をもってラゼルと向き合うことで精一杯だった。
「えっと……あなたは?」
「はっ! スモーカー大佐の部隊で軍曹を勤めております、たしぎと申します!」
「たしぎさんって言うんですね。はじめまして」
「は、はじめまして……」
頭を抱え、呻くクザンを綺麗に無視して会話を進める二人。にこやかな表情のラゼルとは対照的に、たしぎはしどろもどろの百面相である。
「女性の海兵はとっても少ないから、お話が出来て嬉しいです。それもこんな可愛らしい人と。私より年下かな?」
「いえ! とんでもありません……! 年は、今年十九、です……」
「十九! それじゃあ私より二つ下ですね。たしぎちゃんって呼んでもいいですか?」
「わ、私のことなど、お好きにお呼び下さい! ……ラゼル大尉殿」
「大尉殿なんて堅苦しいのはやめて下さい。ラゼルでいいです」
「え!? そんな、滅相もありません……。私ごときが……!」
「うふふ、たしぎちゃん可愛い」
「〜〜〜〜っ、」
じんじんと痛む頭越しに繰り広げられる女子たちの会話に、クザンは妙な感覚を覚えた。この流れはなんだ。なんでたしぎがラゼルと楽しくしゃべってるんだ。……いや、でもこのままいけばたしぎは本来の目的を忘れ、二人で仲良くおしゃべりしてるうちになんとかやり過ごせるかもしれない。緊迫していた周囲の空気も、女たちの和やかなやりとりに緩和し始めている。何事が始まるのかと止まっていた男たちの手が杯を傾け、酒宴の雰囲気が回復しつつあった。
「それで、たしぎちゃん、お話って?」
もう大丈夫だろうと、姿勢を崩しかけたクザンの動きが再び止まる。彼女は忘れていなかったのだ。まっすぐにたしぎを見つめ、ほんのり酒気を帯び、潤んだ瞳で本題を問うた。
「えっと……、ラゼルちゃん、それは、」
「オジさんは黙ってて下さい!!」
二人の間に割って入ろうとしたクザンをピシャリと制したのは鋭いたしぎの声。
「お、オジ……?」
「これは私の問題です! 外野はその辺で木みたいに気配を殺してて下さい!」
「え? おれ外野なの!?」
大将をオジさん扱いするたしぎに目を丸くするラゼル。ああ、威厳のない上司だと思われてる……。しかも、たしぎの野郎、彼女にまでオジさん認定されたらどうしてくれるんだ。
「すみません、私ったら舞い上がっちゃってすっかり大事なことを忘れてました! どうか呆れずお聞き下さい、ラゼル大尉……」
「はい」
「いや、待てって……、!?」
クザンはたしぎを止めようと腰を浮かすが、キラリと鋭く光ったものの気配に動きを止めた。額を冷や汗が伝う。それは、たしぎの腰の鞘から、磨き抜かれた刀身がわずかに覗いていたから。
「今夜、どうしてもあなたに伝えたい想いがあるのです……」
「想い……?」
また周囲の海兵たちの意識がこの場に集まり出した。
たしぎ、やめろ。お願いだから……。
真剣な表情のラゼルの頬は、心無しか桃色に色付いている。いよいよまずい。クザンはたしぎを抑え込むことは諦めて、今度はラゼルに向き合った。冷ややかな視線を浴びようがどうなろうが、仕方ない。公開告白(代理)なんて恐ろしい事態になるのだけは避けなければ……!
「ラゼルちゃん、すまん! こいつ今めちゃくちゃ酔っぱらっ、」
「好きです! ラゼル大尉!!」
潮の匂いを孕んだ一陣の風が吹き抜けた。白い花びらが闇に吸い込まれる。
クザンの言葉はたしぎの凛と通る一声に掻き消された。ラゼルの瞳がわずかに見開かれる。
……言った。とうとう言いやがった。クザンはその場にガックリと項垂れた。
「私……、ラゼル大尉のことが大好きです!」
重ねるように強く、たしぎが言い放った。
そう、私……? ん? わたし……?
クザンはハッと顔を上げる。たしぎは顔を真っ赤にして拳を握り、俯いている。まるで初めて恋を打ち明けた、うぶな小娘みたいに。
その様子を見、ラゼルは少しだけ驚いた顔をした後に、柔らかく笑んだ。
「たしぎちゃん……ありがとう。嬉しいです」
「え?」
その返答に、クザンの口から気の抜けた声が漏れた。
「ラゼル大尉……っ!」
「だから、ラゼルでいいよ」
「ラゼルさん!」
「ふふ、酔ってるのね。おいで」
「ラゼルさーーーーん!」
白い腕を広げたラゼルに、感極まった様子のたしぎが抱き付いた。ヒューヒューと周囲から歓声が上がる。見目の良い女二人の絡みに野郎共は鼻の下を伸ばし、やんややんやと盛り上がっている。
「おうおう、カップル成立かー?」
「たしぎの奴、まァた酔っぱらってやがるぜ……」
「スモーカーの旦那も毎度大変だよな」
「よっ! 熱いぜご両人ー!」
ひしと抱き合う彼女たちの愛の交歓劇に、この場はどうやら上手いことまとまったらしい。たしぎに己の想いをぶちまけられるという最悪の事態は回避出来たようだが、この虚脱感はなんなのか。
「しんど……」
クザンはやっとのことで落ち着けた腰をさすりさすり、今度こそごろりと身を横たえた。
「ラゼルさん、いい匂いがします〜〜」
「そぉ? 別になにもつけてないけど……」
むにゅむにゅむにゅむにゅ。頭上では柔らかそうな二組のおっぱいが生き物のように形を変えながら睦み合っている。その様子をとくと眺めながら、クザンは溜め息を漏らした。
「なんの茶番だよ……」
じゃれ合っている女たちから無理矢理視線を外すと、先程とまったく変わらない場所で黙々と飲んでいるスモーカーと目が合った。
「お前も苦労してんだな……」
スモーカーは、歳に似合わぬ貫禄を纏い、全てを分かったような顔で一つうなずいた。クザンは今、彼の眉間の皺が年々深くなっていく理由が少しだけわかった気がした。モモンガはいつの間にか潰れてそこらに転がっていた。
薄墨色の春の宵がゆっくりと更けて行く。しかし、席を立とうとする者はひとりもいない。宴の盛りはまだまだこれからなのだ。