under the rose

□chapter.38
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ビノシュの隊列に追いつこうと騒がしく遠ざかって行く二人を見送って、ラゼルはゆっくりと息を吐いた。

「ハァ、なんでだろ……」

ひょろりと背の高いその後ろ姿に、ほんの少し未練があることに気付く。
空になった手が冷えていく。あの大きな手、ごつごつと節くれ立った長い指。自分とはまるで違うそれに、もう少しだけ触れていたかっただなんて、どうかしてる。そう、彼の手は、なんだか温かかくって、心地良くって……。誰かさんが決して与えてはくれない情熱が、そこにはあったから。
だから、念を押されていたのに、つい気を持たせるようなことを言ってしまった。それは自分のせいじゃない。……多分。

だって彼が……彼が、電話なんかに出るから。

恩師の存在を差し置いてまで他のことを優先させるなんて、彼らしくない。それじゃまるで普通の人みたい。愛しい誰かの待つ家へ、急いで帰る善良な夫のよう。そんな姿は嫌。見たくない。優先順位はいつも仕事であってほしい。いつだって人を寄せ付けない空気を纏って、冷徹で、厳しくて、揺るぎない存在でいて欲しい。そうしたら彼の側にいられるのはきっと……。

ああ、でも……違う、本当は……。

こんなふうに簡単に心を乱す自分が一番許せないんだ。自分こそただの弱い人間で、どこまでも普通の女。



……ダメだ。

いつもの答えに至ったところで思考を断ち切った。この問答にもいい加減飽きた。それなのに、気付けばいつも嵌まってる。性懲りもなく悩んでは落ち込んで……。

「ハァ……、」

吐く息が熱い。そう強くもないくせに、今日は少し飲み過ぎた。意識ははっきりしているけれど、体の感覚が鈍い。

「帰ろっかな」

こんなときは良くない。心にぽっかりと空いた穴が、内側からどんどん捲れ上がってきてぺろりと裏返ってしまう。そうなってしまえば、体は意思とは関係なく勝手に暴れ出す。
早く帰って薬を飲んで、みじめな体を縛り付けておかないと。

「う〜〜ん……。あ、」

腕を突き出し伸びをして、ようやっとで立ち上がろうとしたとき、膝の上にある存在に気が付いた。

「ラゼルしゃ〜〜ん、どうかひとつ、私とお手合わせを〜〜……」

「そっか、たしぎちゃんだ……。どうしよう」

帰ろうにも、こんな状態のたしぎを残していく訳にはいかない。同じシートには酷いいびきをかいて眠るモモンガしかいないし、片付けの新兵たちはゴミ袋片手に忙しそうにそこいらを走り回っている。クタクタになって、それでも目を血走らせ働く彼らに、言葉をかけるのさえなんだか申し訳なかくて、ラゼルはひとり唸った。

さて、どうしたもんかな……。

なんとなくたしぎの乱れた髪を直してやると、助けを求めるようぼんやりと空を見上げた。いつの間にか月が頭上に現れている。けぶるような桜色を纏った丸い月と目が合った瞬間、ドクリと心臓が跳ねた。このまんまるい円は、まるで自分の心の穴みたいに丸々と肥え太って無様に大きい。

「あ……」

やっぱり、早く帰らないと。

ラゼルは無理矢理月から目を反らすと、気持ち良さそうに眠るたしぎの肩を揺さぶり声をかけた。

「たしぎちゃん、起きて? もう結構な時間ですよー」

「むにゃにゃ……」

驚かせないよう小さな声で呼びかけるが、怪しい寝言が返ってきただけで、まるで起き出す素振りは見られない。

「たしぎちゃん、風邪ひきますよー?」

「すーー……」

さっきより大きな声で優しく頬を叩く。だが、こちらの努力とは反比例して、ますます眠りが深くなっていくようだ。

「たしぎちゃん、お願い……」

耳を引っ張ったり、鼻をつまんだりしてみるが、ダメだ。

「ふがっ、ろーも、ありがとうございまーしゅ」

「きゃっ、」

たしぎは鼻をつままれるとなぜか一層幸せそうな表情を見せ、ぎゅっと腰に抱き付いてきた。その勢いに負け、ラゼルはバランスを崩してしまう。力の抜けた肘がかくりと支えをなくし、背中からシートに沈む。

「あ」

シートは厚手の素材の布で、案外柔らかだった。軽く打ちつけられた後頭部はちっとも痛くないし、なんならこのまま眠ってしまいたいくらいに心地良い肌触りだった。それはきっと、ここが大将格の人間が座るシートだからだろう。大将青雉が、いつでもごろりと寝転がれるように……。
たしぎに体半分以上のしかかられたままで、ラゼルはぼんやり考えた。

「う〜〜ん……重い」

目前には、落ちて来そうな程に大きなミルク色の月が笑っていた。たしぎを押し退けようとも、なんだかうまく力が入らない。
ぞわぞわと身の内でざわめくものの気配があって、ラゼルは咄嗟に片手で目を覆った。

「、ふぅ……」

そうすると少し心が落ち着いた。シートに軽く打ちつけた頭が、今更ながらクラクラと回り出す。暗く閉ざされた瞼の裏で、眩く目に焼き付いた桜のピンクとミルク色がマーブル模様を描き出す。アルコールがゆるゆると血管を巡っている。
どうにも、今は起き上がれそうになかった。

「少しだけ……」

周囲では、そんな二人に気付くことなく淀みなく時間が流れていく。着々と片付いていく散らかった宴席。提灯の灯りがぽつぽつと消えていく。胸の下からはたしぎの健やかな寝息が聞こえてくる。忙しない人の気配で騒がしいはずなのに、やけに静かだった。自分たちの周りに薄い膜があるみたいに、ここだけぽっかり取り残されたような不思議な心地がした。

うん、すこしだけ……。

グルグルかき混ぜられてる、この頭の中が静まるまで。
そう自分に言い聞かせて、ラゼルは手のひらの下の瞼を閉じた。




「……い、大丈夫か?」

それから五分も経たないうちに、ラゼルの瞳はパチリと開かれることとなった。人の近付いて来る気配があって、意識だけは瞼が開かれる少し前に勝手に覚醒していた。

大丈夫、危険は……ない、はず。

「寝てるのか……?」

低い声が降ってきた。喉の奥を燻したような、いがらっぽい響きに耳を澄ます。

「……いえ、起きてます」

瞼を覆っていた手をどけると、月を背負った一人の男が自分たちを見下ろしていた。逆光になってその顔はよく見えないし、なんだか彼の周りが薄ぼんやりと白く煙っている。それは嗅ぎ慣れたあの人の葉巻とは少し違う種類の匂いだった。

「じゃあ酔ってんのか? 女二人、こんなとこで不用心だと思わねェのか」

「不用心……? ああ、確かにそうですね」

そう言われればそうかもしれない。こんな夜中に女二人、シートの上で転がっているのは、普通に考えればちょっとおかしい光景か。だけど、近くにモモンガだっている。周りにはまだ海兵たちの存在もあるのに……。厳めしい雰囲気を撒き散らしてるけど、案外心配性なんだろうか。なんだかちくはぐな印象の人だ。

「何がおかしい? まァこの状態を見るに、こいつが迷惑をかけたってことはわかってる」

「ええと、そんなことは……」

心の中で笑ったつもりが、表情に出てしまったみたいだ。彼は一層不機嫌そうな空気を漂わせると、ラゼルの腹に巻き付いているたしぎに視線を落とし、むんずと襟首に手を掛けた。

「オラ、いい加減起きろ!……、たしぎッ!!」

「グェ、ゲホッ!? え、あれ? スモーカー大佐!? …… て、敵襲ですかっ!?」

男はラゼルの腹からベリベリとたしぎを引き剥がすと、そのあたりに雑に放った。鼻面からシートに突っ伏したたしぎが、ぎゃっと潰れたような声を上げた。

「帰るぞボケ。とっとと支度しろ」

「あい、今出撃の準備を……ッ」

慌てて眼鏡を探す仕草をしたたしぎだったが、スカスカと空振りを繰り返している。しばしぎゅっと眉根を寄せ目をしばたかせたと思うと、だんだんと動作が緩慢になり、またころりと眠り込んでしまった。

「あ、寝ちゃいましたね」

「ンのやろォ〜……!!」

気付けば、目眩はだいぶマシになっていた。
ゆっくりと半身を起こすと、ラゼルは頭をもたげ辺りを見回した。
葉巻の男、スモーカーの影になっていた顔が、月の光に照らし出された。
眼光鋭く、深く刻まれた眉間の皺がなんとも不機嫌そう。葉巻を二本も口にくわえたままで、どうしてそんなに上手にしゃべれるのか。よく鍛え上げられた胸筋が、雑に寛げられたシャツの間から覗いていてうっかり見とれてしまう……。
闇が、夜の気配が濃厚になっていた。片付けをする海兵たちの姿もまばらで、あんなにかすかだった波の音がはっきりと聞こえた。

「あの、スモーカー大佐、どうしましょうか……?」

だらしなく眠りこけるたしぎにギリギリと歯を剥くスモーカー。その剣幕に障らぬよう、控えめに声を掛けた。

「ああ、アンタは気にすんな。こいつは大体いつもこんなだ。問題なのは、酔って寝ちまったこのバカを、誰が家に投げ込むかってことで……」

白煙とともに吐き出された大きな溜め息は、心底面倒臭そうな彼の心情を代弁していた。その露骨な態度に、ラゼルはまた少し可笑しくなった。

「じゃあ、私がたしぎちゃんを」

他の将校たちはとっくに二次会に行くか引き上げているかなのに、こんな時間まで残って片付け係の部下の采配でもしていたのだろう。その強面とは裏腹に、きっと責任感が強くて面倒見のいい人なのだ。でもほら、その不機嫌そうな顔に疲れが滲んでる。目元に染み付いているのは、濃い疲労の影。

かわいそ……。ていうかちょっと可愛い。

そんな彼が不憫で、ラゼルは膝に力を込めると腰を浮かせた。

「いや、そんなつもりで言ったんじゃねェ。こいつのことは気にするな。上司のおれが責任をとるさ。アンタもとっとと帰ってくれ」

「大丈夫です。それより大佐さんこそ遅くまでお疲れでしょう? どうぞお先に、……ん?」

思い切って立ち上がった瞬間、すぅっ体温が下がるのを感じた。片膝がかくりとバランスを欠いて、体が前のめりになる。一瞬の浮遊感。

「ん? って、おい……っ!」

体が重力に逆らえない。立ち眩みか。……油断した。

「っ、…………?」

だけど、覚悟していた衝撃は訪れなかった。かわりに頬に触れたのは、硬くてほんのり温かい、人の肌。今ラゼルにとって一番危険な代物だった。

「ったく……。さっきから一体何が大丈夫なんだ? アンタ、十分危なっかしいぜ」

前に倒れそうにつんのめったラゼルの体を受け止めたのは、スモーカーの逞しい胸板だった。

「ふふ、ほんとだ……。ごめんなさい」

もうどこまでが自分の意思なのかわからない。なんせ今日は満月だ。
ひっそりと頬をシャツに押し付ければ、滲み着いた煙の匂いが一層強く香った。
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