短編

□ココア
1ページ/3ページ


詩紀はとある会社で技術部に所属しているしがない会社員。

とくになにかに秀でているわけでもなく、かといってなにも出来ないようなポンコツでもなく、ぼちぼち仕事が出来るくらいの人間だ。

そんな平凡な詩紀は、密かに好きな人がいる。

その人は、詩紀と同期なのだが、営業部の人でほとんど関わりがない。

初めの頃の研修でしか関わらなかったのだが、その時に好きになってしまったのだ。

研修中、詩紀が失敗しそうになった時、さりげなく助けてくれたり、明るい笑顔で話しかけてくれたりした。

太陽みたいにキラキラした笑顔が素敵な人。

営業部のエースにも気に入られているらしく、彼自身の営業の実力もすごいのだとか。

そんな高嶺の花ともいえる彼──七松小平太に恋をしているだなんて、無謀としか言えなかった。

詩紀は事務部の人たちのようにお洒落が出来るわけでもないし、むしろ技術部ということもありお世辞にも綺麗とは言えないくらい、毎日手や頬が汚れている。

今日も詩紀は彼と関わることもなく、いつも通り仕事をこなして、定時にあがる予定だった。

しかし、定時にあがれることなく、仕事が残ってしまったので、残業することになった。

同じ技術部で働く一人が具合が悪いというので早退してしまったのだ。

のちに、その人はインフルエンザだと判明したらしい。

仕事…どのくらいかかるのかなぁ

そう思いながら手は止めずに、作業を続ける。

ひたすら作業に取り組んでいると、突然作業場の扉が開いて、営業部の人たちがビニール袋片手に入ってきた。

「お疲れさん、今日はもうあがっていいよ」

営業部のエースが、技術部の部長にそう言ってビニール袋を渡した。

「そうは言っても…まだ作業は残ってるからなぁ」

「じゃあ少しぐらい休憩しろよ、ほら、それ差し入れだ」

ビニール袋には、技術部の人数分の飲み物が入っていたようだ。

「営業ついでに買ってきてやったんだからな、その分しっかり働けよ」

「誰も頼んでねぇや、まぁ、ありがたく頂くかな…お、ところで後ろの坊主は、お前のお気に入りってやつか?」

部長が営業部のエースの後ろにいる人を見てそう聞いた。

「おお、そうだ。こいつ、去年入った七松。なかなかのやり手だ」

「どうも!!営業部の七松小平太です!!」

「こりゃ元気があっていいや!」

詩紀は少し離れたところから、その様子を見ていた。

相変わらず素敵な笑顔…

作業の手を止めてぼうっと小平太を見つめていると、彼は何か探しているような素振りをして、そして詩紀と目が合うと太陽みたいな笑顔を向けてくれた。

詩紀はそれだけでぼっと顔が赤くなり、慌てて作業に戻った。

どうしよう、無視したみたいに思ったかな

そんなつもりじゃないけど、でもだって、恥ずかしい

それに、私、いますごく汚いし…

なにも考えないようにひたすら作業をこなしていると、作業台に影が落ちた。

ふと見上げると、そこには小平太がいた。

「なぁ、休憩したらどうだ?」

「へっ、あ、は、はい」

「ほら、どれがいい?」

そう言って小平太はビニール袋からいろいろな飲み物を出して、詩紀を見つめる。

「あっと、あっと…ココア、を…」

「ココアな」

小平太は、ココアを詩紀に渡した。

「あ、ありがとう、ございます。その…いただきます」

「うん」

ココアの缶のふたを開けて、飲もうとしたけれど、小平太からの視線が気になって飲めない。

いつまでも飲もうとしない詩紀を不思議に思ったのか、小平太は首をかしげる。

「…飲まないのか?」

「えっと…その…見られると、飲みづらい…のです」

「…見てちゃ駄目か?」

「えっ…いや…あの…私、いま、すごく汚れてて…あんまり見られると恥ずかしい…です」

「…そうか?」

小平太は詩紀の頬に手を伸ばし、親指で優しく拭った。

突然触られて、詩紀は驚いて体を固まらせた。

「汚れてるのは、仕事を頑張ってるっことだろ。なにも恥ずかしくないよ」

そう言って手を離した小平太の親指は少し汚れがついていたが、彼はなにも気にしていないようで太陽みたいににかっと笑った。

詩紀は、頬を押さえて顔を真っ赤に染めた。

「お?赤くなった」

「あ、あああの、ここココアいただきます!」

詩紀は誤魔化すように冷たいココアを飲み干した。

甘くて冷たいココアは、詩紀の熱くなった頬を冷ましてはくれなかった。

そして、そそくさと仕事に戻ると、側にいた小平太がくすくすと笑っている気配がした。

だけど、それになにか言う勇気はなく、もくもくと作業を続けた。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ