この蒼空(そら)の彼方、響け金糸雀の唄


□第0話
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 耳を叩く風の音が、喧騒を打ち消して心に静寂をつくり出す。

 高層ビルの屋上に吹き付ける突風は少女の幼い体を流すのに充分過ぎる勢いを保っており、彼女はその身を小さく震わせた。
 否――震えの理由は寒さだけではない。足の先から込み上げる恐怖が、少女の一歩を踏みとどまらせている。

「――ッ、」

 下を見て、息を呑む。人はおろか車や建物ですら豆粒程度にしか認識出来ず、けれどその中の多くがおそらく笑いながら街を漂っているのだろうと思うと、どうしようもない虚しさで押し潰されそうになった。
 呼吸が苦しい。冷たい空気を肺に取り込めば、それはすぐに生ぬるく溶けて胸に広がった。
 ……呼吸は楽にならない。

「っ、ぁ……」

 熱いものが頬を伝う感覚――涙だ。
 (くう)に落とされたそれは音も無くて。ごう、と吹いた突風にかき消された。
 飲まれたのだ。暗い暗いソラに。
 そして今、自分も沈むのだ。その闇の底に。
ダッテモウ、堪エラレナイ……カラ……

 足場の無い黒天に歩を踏み出す。浮かせたまま、五秒。そこに体重を移せば、全て終わる。終わらせられる。

「これで、やっと……」

私ハ、開放サレルノ

 ぐっ、と唇を結ぶ。ぎゅっ、と目を閉じる。
 バランスを支えていた手すりを離して空に身を投げれば、地上に身体ごと掴まれたような引っ張られる感覚。
 これが重力。
 ああ、私は今……墜ちているんだ。
 その時間は刹那――となる筈だった。

「死にたいの?」
「……えっ?」

 突然の声に目を開ければ、落下する少女の目の前には知らない女の顔がある。女は少女と同じ速度で落ち、なのに淡泊で平然とした表情をしていた。
 一瞬で終わると思っていた刻が凍りつく。
 もう終わっていてもおかしくない時間なのに、無に還っているであろう時間なのに。いつまでも、いつまでも落ちていて……
 このビル、こんなに高かった? ……ううん、そんなこと……

「死に急ぐこと、ないじゃない」

 女がそう呟いた途端、目の前が白い光に包まれた。



「っ、……え……?」

 気づけば風は止んでいて。自分の体はもと居た屋上に座り込んでいる。

「なん、で……」

 確かに飛び降りた筈だ。現に、味わったことの無い浮遊感が今もこの肢体に残っている。
 一体なにが起こったの?
 茫然自失の少女が顔を上げると、そこには白い着物の女がゆらりと立っていた。先程の女だ。

「……だれ?」
「…………」

 女は応えない。

「どうして……ジャマした、の?」
「邪魔……? こういうの、“助けた”って言うのではないかしら?」
「……いらない……助けなんて、いま、さら……ッ」

 今更。今更すぎる。
 だってどんなに願っても、祈っても……泣いても、今まで誰も助けてなんかくれなかった。

「今更と悲観するには早いのではないかしら。貴女まだ子どもでしょう」
「バカにしないでよッ! 子どもだって……ツラくて、痛くて……くるしいんだよ……う、っく……」

 嗚咽混じりの悲痛な叫び。それこそが、少女が“終わり”を求めた理由。
 一度堰が切れてしまえば、もう涙は止まることを知らない。後から後から哀しみの波が押し寄せて、ぱたぱたと零れる雫がアスファルトに染みていく。
 女は静かにその様子を見据え、少女の正面に膝をついた。透き通るような白い掌で、濡れた両頬を包み込む。

「……貴女に決めたわ」
「え?」
「取引をしましょう」

 顔が近づく。瞳が交わる。漆黒の瞳を捉える紅の瞳――逸らせない。

「私には、この世界で生きる為の肉体が……器が必要なの」
「うつ、わ?」
「そう。それを貴女に貸してもらいたいの。代わりに私は、貴女の願いを叶えてあげる」
「わたしの、ねがい……」

 どうしよう。意味がよくわからない。頭が混乱して回らない。
 ……でも。

「これは契約よ。約束は、必ず守るわ」
「やく、そく……」

 どうせ終わらせるつもりだったこの身。彼女が何者なのかはわからないけれど、もう別に……
 契約でも約束でも。死神でも悪魔でも。

「……どうでもいい、か」

 不思議と涙が引いていく。それは落ち着きを取り戻したが故か、それとも人成らざる者との取引の証として奪われたのか。
 それももう、どうでもいい。

「……わたしの、ねがいは……」
「願いは?」
「……――……」

 女は少女に手を差し出す。少女はその手を取った。
 再びその場は光に包まれる。



 はじまりの闇は、
 今ここから、明けていくのだった……――
 

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