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□Remember September
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まだ覚えている、あの九月のこと。
朝から晩まで、雨が降り続いていた。
寝ても覚めても、変わらず頭に響く、その重苦しさに、そろそろ気が滅入る頃だった。
只、この日は、それが静かに思えた。
いつもは鬱陶しい雨音が遠ざかるくらい、部屋で手荷物を纏めている人の一挙一動、繊細な衣擦れの音に、サクラは意識を傾けていた。
物言いたげな、でももう言わないことにしているのだろうその心情を、確かに察した顔をして、それでも彼は決意を曲げなかった。
彼の意思というか、これは彼より上の権力者に言い付かった内命で、従う他になく、だからサクラも未練がましく引き止める行為を仕舞った。
どうあっても、もう覆ることはないし、二人共分かっていたのだ。
――あなたが此処を出て、やがてあの雨に濡れなければならないこと。







『Remember September』







秋の長雨のしとしとと降る、幾日目のことだったか。
朝から薄暗い部屋の片隅に立ち、サクラは黙って身繕いするカカシを眺めていた。
多分、朝だったと思う。
最後のこんな日にも、到頭晴れることはなかったと、人知れず恨んだのを覚えている。
彼は秋の憂愁と雨にきっと愛されていたのだ。

――行ってくるよ。
いつの間にか、カカシが目の前に来て、静かにサクラに告げる。
細やかな雨粒の音に、彼の低い声が溶けて、馴染んで消えた。
窓の外の雨空と、その髪は同じ色をしていた。
電気も点けない室内で、薄暗い色した顔が此方を見て、微かに微笑んでいる。
それは諦めなのか、最愛の人への愛慕の表れか、サクラは今となっても分からない。
肝心な時に、カカシは多くを語ろうとしない。
陽の下で眩しく弾ける、無邪気な笑みと同じくらいに、彼の顔は憂いが似合う。
だから雨に、こうして好かれてしまい、今日もこんな天気なのだろう。

何も言わないサクラの顎に、そっと指が触れる。
そのまま上向かせられて、素顔のままのカカシと視線が交わり、口付けを受けた。
唇に押し当てられた、柔らかく温かな感触は、この後雨に濡れて冷えるのだろう。
最後の挨拶としては、簡素なくらい、短い触れ合いの後、サクラは目を開けて、まだ顔の側に控えているカカシの、端整な目元を見つめる。

誕生日を、この前祝ったばかりだった。
一つ年を取って、何か変わったかと問えば、カカシは少し考えて、“目元の皺が増えたかな”とおどけて見せたが、サクラには違いが分からなかった。
これ程近くにいると、些細な変化に気付き難い。
そうして、年を重ねていくのかと思っていた。
気付いたら白髪頭になっていて、“似たような色だから分からなかった”と、皺くちゃの顔同士を向けてけらけら笑い合うのだと。

カカシの口元には、それきり柔らかな笑みは浮かばなかった。
陽の光のように、サクラを穏やかに包み込んでくれる面差しは、雨空に似合いの、憂いの仮面を被る。
木ノ葉に今降る、雨を抜けた後のことを、どこか彼は考えているようだった。
一頻り、サクラの(すべ)らかな頬を撫でた後、その手は己の口布を引き上げ、サクラしか知らない口元を隠す。
もう直ぐに、ドアに向かうことが予感された。
それでも、この場に相応しい“もの”が分からなくて、サクラは何も言わなかった。
じゃあ、行ってくると、再びマスクの下でカカシは短く告げる。
それに、頷き掛け、サクラは直ぐ様首の動きを止めた。
“カカシが行こうとしている所”に、送り出すみたいだったから。
行っていいよと、まるで告げているみたいだったから。
何だか、それは、駄目だと、サクラは意地を張って結局何も口にしなかった。
反応のないサクラを気にするでもなく、だがその全てを分かっている風でもなく、カカシは表情を変えずにドアに向かう。
“いってらっしゃい”も、何の送り出しもない、出発の冷えた朝、カカシはドアを開け、雨の中に姿を眩ませた。













それから秋が過ぎ、雨が雪に変わった。
一層冷え込んだ、雪の降り頻る十二月。
温かな掌に包まれ、絡めた指先を上着のポケットに押し込まれたことを不意に思い出し、サクラはグローブから伸びる指先に息を吹き掛ける。
彼はあの雨の日から帰らない。
彼に似合いの、憂いの季節は終わり、ちょっぴり苦手だと言っていた白い季節が始まる。
カカシを置き去りにして、世界は廻る。
だがこんな寒い時に、帰って来なくて良かった。
温暖な気候の、木の葉の里だが、今年の冬は特に冷え込むと、ラジオか何かで言っていた。
寒がりの癖に、カカシは決まって冷えたサクラの手を温めてくれるから、いつも忍びなかった。

カカシをこの里に迎えるなら、春が良い。
彼の残した黒い手帳を閉じて、胸に抱えると、サクラは春の陽射しを思い浮かべる。
目の前の白い景色に、瞼の裏で温かな緑を重ね見る。
春の小さな花々が、足元を彩り、周りには蝶が、頭上には青々とした空が広がっている。
この晴れ空の下で見るカカシの笑顔が、大好きだった。
ああ、やっぱりこれが良い。
いつまでも無邪気な少年のように笑った彼には、憂愁の九月よりもこれが似合う。

三月頃が良い。
まだ肌寒さの少し残る、でも確かに春の足音がしている、新たな草花が少しずつ萌す頃。
寒い時は身を寄せて、二人で花の開く瞬間をのんびりと待とう。
長期任務の後は、長い休暇が貰えるから、心配しなくて良い。
麗らかな日和に、瞼が重くなってきたら、カカシが肩を抱いて微睡ませてくれる。
促されるまま、サクラは甘えて広い胸にそっと頭を凭れる。
そこに、緑を踏む、懐かしい足音が聞こえてくる。



春の夢から、静かに目覚めると、だが確かに緑の草を柔らかく踏む音がする。
ついさっきまで、白い雪で覆われていた公園は、一面に若草が芽生えていた。
もう温める必要のなくなった指先が、手帳を側に置く。
ベンチに座って、前を向いたまま、既にサクラの眼からは涙が溢れていた。
後ろに立つ気配、自分の名を呼ぶその声に、心当たりなどあり過ぎた。

――ただいま。
震えるサクラの頭に手が置かれ、積もった雪を払われる。
その温かな掌の感触に、堪え切れなくて、サクラは良く知った懐かしい気配を振り返った。

サクラの記憶の通りの、優しく笑みを浮かべた彼が、何も変わらない姿で其処にいた。
春の陽光の似合う、この青空の似合う、随分と待ち焦がれた人。
頭やら肩に、雪を積もらせたサクラと違い、彼は暖かい風を纏っていた。
一片の雪もついていない身体に、そっと手を伸ばすと、掌に包まれた。
皺が増えたと言っていたその目元は、あの雨の日のようには少しも憂いておらず、今は穏やかにサクラを見つめ返す。
先生、先生と、怒涛のように押し寄せる感情がその名を呼び、カカシは応えるように、涙の走るサクラの頬をあの時のように包み込む。
握り合った指先を一層絡めて、頬を懇ろに撫でながら、カカシの目元がサクラに窺った。
――一緒に、来るか?

カカシの真剣な眼差しに、サクラは一瞬言葉に閊える。
絡み付く指先は離れない、しかし断る猶予も与えていた。
ほんの僅かばかり、力の緩んだ指を、サクラはしっかりと握った。
何処へ、と聞いてしまえば、カカシが悲しい顔をすると思った。
カカシと一緒なら何処でも良い。
――行く……行く……先生と一緒に行く。
涙を湛えた瞳で、強かにそう告げると、微かにカカシは頷き、腕を広げサクラを包み込む。
暖かい春の陽射しそのもののような温もりに抱き寄せられ、サクラは今度は温かな涙を瞳から溢れさせる。
雫がカカシの胸に落ちても、彼が濡れることはなかった。
もう冷やしてしまうことはない。
カカシと共にいれば、もうサクラが冷えることはないのだから。

互いが見えなくなる程の、目映い光に包まれる。
抱き締めた人を、もう見失わないように、サクラは背に回した腕に力を込める。
雪を溶かすのは、只々明るい晴天の陽射し。
春の訪れだ。

九月の長雨にも十二月の雪にも、もう脅かされず、これからは暖かな季節の中に、二人は寄り添う。








(Remember September/Saint Vox)

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