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□手を繋いで
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 前を往く長身の男を、若草の芽吹くような双眸が、好奇心旺盛に捉える。少々寒がりな、丸みを帯びた背中は、意外にも勘が良い。気を抜いていると見せかけて、背後を警戒している恐れもある。
 だから。逃げられないように、そうっと、そうっと。
 今持ち得る最大の忍び足を使って近付き、狙いを定めると、サクラはポケットに突っ込まれた腕にぴょんと飛び付く。

「先生」

 軽く背中にぶつかる衝撃に、カカシは驚いたようにサクラを振り返る。額宛てと口布の間から覗く見開いた片目が、それを物語っている。尤も、どこまでが彼の素の反応なのか、上忍の被る仮面を読むことは、今のサクラには難しい。事実、驚いた風に見えるカカシの顔が、どこかぽかんと呆けているようにも見える。

「一緒に行ってもいい?」

 カカシの腕に自分のそれを巻き付けて、サクラは真上を見上げた。近くに来ると、尚彼は大きい。小柄なサクラの遥か上に視点を持っている。それでも、背中が丸まっている分、些かその距離は縮まっているようでもある。

「うん、いいけど……サクラはサスケ達とは行かないの?」

 先程別れたばかりの、教え子の登場に、カカシの顔に疑問符が浮かんでいる。点のようになった黒目を、瞬きながらも一応頷く様は、少女の取った選択を、単純に不思議に思っているようだ。
 ほんの数分前、班での鍛練を一段落させて、昼休みを取る為に、教師と教え子で、訓練場を二手に散じたばかりだった。四枚の花弁とするなら、それが一枚と三枚に分かれた。ところが、たった一枚きりになった花弁がふわふわと漂っているところに、追い掛けるようにして桃色の花弁が後からやって来た。当然大好きなサスケ(とナルト)と共にアカデミー近くの食堂に行くかと思われた少女が、何故かカカシの元に。
 カカシの問い掛けに、サクラは白い歯を零して無邪気に笑った。

「エヘヘ。だって、先生と一緒なら、おごってくれるから」

 以前偶々、カカシとアカデミーで出会した時に、彼の通う蕎麦屋に連れて行って貰ったことを、サクラは覚えていた。普段は気が引けて頼めない、豪勢な天麩羅蒸籠蕎麦を、他の班員達には内緒で御馳走になった。元より、サクラから彼らに、わざわざ話す気はなかったのだが――。内緒だよと、マスクの上に指一本を置いて微笑むカカシに、二人だけの秘め事が出来たみたいで、サクラは密かに心が躍ったのだった。

「え、何それ。そんな理由でついて来たの?たかられているの? オレ」

 純真な笑みの中に、サクラの計算高い思考を垣間見て、カカシが苦笑する。本当は、理由はそうではないのだが…サクラは緩んでいく顔を誤魔化すように、ぎゅうっとカカシの腕に抱き付く。捕まえてしまえば、此方のものである。
――いいよ、行こうか。
 やがて困り顔のままに、カカシはふっと笑うと、ポケットから手を出し、サクラの掌を握り込む。大きな掌にすっぽりと包まれ、長い指が余るくらいに巻き付いて、サクラも掌をいっぱいに広げ、それを握り返した。
……手が、繋げるから。
 こうして二人きりになると、偶に戯れと、カカシが手を繋いでくれる。サスケやナルトの手前では、少々恥ずかしいのだが、カカシもそれを分かっているのか、こっそりとしてくれる。将又甘やかしたいと思っているのは、“サクラ”だけであるのか(少年ら二人と手を繋いでも彼には特に喜ばしいことではないのかもしれない)。何れにしろ特別扱いが嬉しくて、サクラは逞しい掌をぎゅっと握り締める。それに反応して、カカシの方も穏やかな微笑みを向け、指先に僅かに力を込める。大の男が華奢な少女の指先を壊れぬようにと配慮して、恐々と握る、その様相は少し微笑ましい。戦闘中は冷たいクナイを操り血飛沫に塗れるカカシの手は、一度戦地を離れると、信じられない程に優しいのだ。
――で、どこ行くの? 冷酷な仮面を脱いだカカシの柔和な顔が、サクラに尋ねる。カカシにこの前ご馳走になったことに、味を占めたようなサクラだったから、何か食べたい物があるのかと、思ったようだ。
 行き先を委ねられ、サクラは返答に詰まった。この繋いだ“手”が、目的だったから、特にこれと言って食べたい物はなかった。
 えっと…と顎に指を当て思案し始めるところで、その思考は中断される。

「カカシ。ちょっと良いかしら」

 アカデミーの側を通り過ぎようという時、屋敷に飼われた猫のような、品の良い美声が、二人の耳に届いた。呼び掛けられて足を止めるカカシに、サクラも立ち止まり声の方を見遣る。
……紅先生。
 カカシに同じく、3代目火影より任命され、他班−ルーキー−を統率するその美しい上忍の姿は、何度か見掛けたことがあった。白い顔に嵌め込まれた、真紅の薔薇のような瞳が、静かに微笑みを湛えて、此方を見つめる。優美な挙措をしつつも、どこかその顔には少女のあどけなさが残っている。艶やかな黒髪を揺らして、此方に近付いてくる様子に、無意識の内に、サクラは繋いだカカシの手を握り締めた。
 真直(ますぐ)に、カカシの方へ行こうとした瞳が、不意にサクラを捉えた。繋いだ二つの手をじっと見つめて、何か察したらしく(うるわ)しい眉目が、こてんと倒される。

「……ごめんね。ちょっとだけ、カカシを借りても良い?」
「は、はい」

 年下の少女を生真面目に窺う、薔薇の色した瞳は、存外に優しかった。
 木ノ葉の上忍を名乗るには、それ相応の戦場を潜り抜けている。整った顔立ちが、どこか冷たい印象を与えていると思うこともあったが……緩められた目元は、何かサクラを通して、自分の受け持つ生徒を重ね見ているようにも思える。
 綺麗にカールされた睫毛が、ぱちりと瞬き、名と同じように紅色の唇がにこりと弧を描く。サクラと目線を合わせていた彼女は、了解を得ると、屈めていた体を起こし、カカシに窺った。
――これなんだけど……。
 書類のようなものを出して、紅が同僚であるカカシに話し出す。背丈が足りず、サクラには何の書類なのかは分からないが、こんな道中で取り出してしまえるのだから、それ程機密文書という訳でもないのだろう。
 紅が紙面を示しながら説明して、カカシがそれを見ながら頷く。忍の端くれとして知っている単語が、ところどころ聞こえてきてしまって、少し後ろめたい。なるべく気にしていないようにして、サクラは目を背ける。カカシはまだ話に相槌を打っており、終えるには暫く時間が掛かりそうだ。繋いだままのカカシの手を、手持ち無沙汰に握って黙って待っていると、ふとサクラの視線が、書類を持つ紅の手に留まる。
 彼女も下忍を受け持つ師として、任務に勤しんでいる。然程伸びてはいないが、少々角度を付けて楕円に切り揃えられた爪は、せめてものお洒落という具合か、表面が綺麗に磨かれていて艶があった。一方視線を移し、カカシに握られているのは、子供のような丸い爪。任務や鍛錬には差し支えないが、色気も何もない。そんな子供っぽい手が、サクラは急にみすぼらしく感じてしまい、顔を伏せる。話に傾注しているカカシを窺いながら、そっと……カカシの手を離した。

「あー、それね……」

 紅の説明を聞き終えて、カカシが考え込んでいる。しかし普段通りの間延びした声音からして、それ程深刻ではないようだった。紅もそれを察してか、明るい返答をカカシに期待している。
 聡い眼差しに促されて、カカシが声を押し出す頃、それと同時に彼の手が伸びて、離れたサクラの手を再び掴んだ。

「――」

 吃驚して、何も言えずにカカシを見上げると、マスクで覆われた彼は、素知らぬ顔で書類を指し示している。
 今度は逃げないように。離さないようにと、固く手を握り締められ、顔を真っ赤にしてサクラは縮こまっていた。指を、動かそうとしても、カカシの手はびくともしない。……もう簡単には、擦り抜けられそうになかった。

「じゃあこの件は、火影様に」

 何度も細かく頷き、カカシの出す案に大きく納得したような紅は、晴れやかな表情で話を切り上げた。
 安心したように目元を緩めて、深紅の花が咲き零れる。憂い事が払拭したらしい様子に、カカシもにっこりとして彼女の言葉を推す。微笑む薔薇の視線は、その横にいるサクラへと移った。

「ふふ……どうもありがとう。あなたにお返しするわ」

 どうにも気になっていたのか、頬染めたサクラの顔を覗き込んで、紅は殊更笑みを深くした。そして元通り、“繋いだまま”になっているカカシとサクラの手に、やはり眼差しを移し、それから暇を告げる。
 邪魔をして悪かったと、高低差のある二人の顔を交互に見る紅に、声も出せず、サクラは固まっていた。“返す”と言うのは、間違いなく隣にいるカカシのことなのだろうが、別に、自分のものでは……。若しかして、からかわれているのだろうか。訝っておずおずと、優美な面差しを窺ったサクラだが、紅は目を細めるだけだった。


 最後に“ありがとう”と、カカシに小さく礼を言って、木ノ葉の名花は去って行った。
 背中に巻き髪を弾ませ、淑やかにアカデミーの門を潜る紅を、言葉もなく見ていると、カカシが言い放つ。

「何で手、離すの」

 責めるでもなく、只いつもの飄々とした口調で告げられて、だがサクラははっとして体を強張らせる。小さくなった紅の後ろ姿が、やがて見えなくなる。追うものがなくなりサクラの眼が彷徨い出す。問い掛けに対する上手い返しが見つからない。少し、紅の綺麗な手元に、気後れして、恥ずかしかったのだ。しかし真実を言うには些か抵抗を感じる。
 何も言えずにいるサクラを、優しい眼差しでカカシが見下ろす。
 彼は俯くサクラを少しも責めていない。その温かさが注いでいた。
 サクラは気付いていないが、小さな手を追い掛けた大きな手の持つ“意思”を。
……カカシは大人だから、素直に告げた。

――寂しいでしょ。オレが。
 やっと顔を上げたサクラに、にっこりと笑い掛けて。繋いだ手にカカシが力を込めるとサクラの唇が綻びる。


 ぎゅっと握り合った手を揺らして二人で歩き出す。
 サクラはそれで満足そうだったが、しかし“行き先”があった方がやはり良いだろうと、カカシが再びそれを尋ねた。

「で、何食べたいのかな?」

 お腹空いたな、とふにゃりと笑うカカシへと、サクラは今度こそ答を言った。
 カカシの手があるなら、特に拘りはなかった筈の昼食だった。しかし、やっぱり……。

「……天ぷらせいろ…」
「えっ、また? ……ん、いいよ……天ぷら、好きなのね」

 小さくひっそりと言った言葉の欠片を、カカシは容易く耳に拾った。少し驚かれたが蕎麦屋で結構値が張るメニューは許可された。
 カカシの苦笑いに何を感じるでもなく、またその言葉を認めるでもなく、只サクラはカカシに向かって血色の良い頬を緩ませる。
 天ぷらが特別好きな訳ではないがそれには思い出が詰まっていた。手を繋いで店の暖簾を潜ったこと。二人で仲良く蕎麦を啜ったこと。何てことのない出来事がサクラには“特別”だった。カカシと一緒なら、これから先、きっと何もかもが。


 カカシのグローブを回りきらない小さな指と子供っぽい爪。壊れぬようにと配慮して握ってくれるカカシの手はやはり温かくて優しい。
 いつの日かこの手に似合う指先になりたい。サクラの脳裏に薔薇の微笑みを湛えた紅の姿が浮かぶ。あんな風に淑やかな女性になれたら、カカシは今よりももっと真剣に此方を見てくれるのだろうか。そう思案してそっと見上げた彼は直ぐにサクラに気付き、にっこりと微笑うだけだった。ああ今は、それだけで十分――。


 だから、手を繋いで。どこまでも、どこまでも。
 どこまでもこの手と一緒に。
 歩いていきたい。

 そう、小さな手から込められる願い事、寂しがりな大きな手には、きっと、届いている。




(了)




●amaryllis 4万打記念SS●  

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