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□春愁
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「いやあ、春だね」

温かい春の風を、じっと肌に感じていると、後ろから声を掛けられる。
知らぬ内に、随分と春の花が綻び出したこの時分となっては、そろそろ衣替えが必要だろう。

「……カカシ先生」

今日は悉く雲一つない快晴で、気温も高く、季節の変わり目に羽織っているいつものカーディガンは、置いてきた。
だからだろう、サクラの横に来て腰を下ろす、未だに全く冬物の、首元まで隠す装束姿の出で立ちである師が、妙に野暮ったく見えるのは。
よっ、と笑顔を向けてくるカカシに、答えることなく、サクラは顔を前に戻す。

「サクラってさ……やっぱり春生まれだから、“サクラ”なの?」

素っ気ないその態度に、あれ?、と首を傾けながらも、カカシは気にする様子なく、違う話を振ってくる。
行き成り、座るなり、名前の由来を尋ねてくるカカシが、恐らくそうしようと思ったのは、前方の川辺に植えてある、同じ名の樹木を目に入れたからだろう。
サクラの座る、青い草の茂る土手から、川辺を見ると、確かに桃色の花弁が満開で、見頃を迎えていた。
川を見下ろす形で、小高い此処からは、幾つも連なるそれらが良く窺えた。

「……さあ……。多分、そうなんじゃないですか」
「え……自分のことでしょうよ……お母さんに聞いたことない?」

カカシの信じられない、と言うような視線を横顔に感じたが、サクラは前方を見たまま、声だけを返す。

「別に……予想出来ることだから。わざわざ聞いたことはないです」

そう言う彼の名は、多分畑に立っているのを見てそのまま付けたとか、そんなところだろう。
そんなものだと思う、名前など。

「そ……。何と言うか、随分現実的な子供だったね」

笑うでもなく、呆れるでもなく、思ったことを只口にしてみた、みたいな、率直な感想が返される。
それだけでそう決めつけられるのは、少々意に満たないことだったが、訂正するほど可笑しいものでもない気がして、黙っていた。
サクラが言葉を返さないと、其処で会話は途切れる。
別に今更、気を遣う相手ではなかったし、向こうもまた、サクラの皮肉めいた言葉など気にしていないように思える。
只、無言が続いても彼がこの場から動かないことに、何かカカシの醸し出す、強固な意思を、感じていた。
明らかに何かを気にして、サクラの傍に、それは来たのだと。

「んー、確かに……。こうして眺めている分にはキレイだけどさ」

前方を見遣るカカシの様子から、それは恐らく、川辺に植わる桜の木のことを指しているのだろう。
此方から桜の話を振った覚えはないのだが、恰もそれを眺めて、“綺麗”だと言ったサクラに答える風に、カカシは続ける。

「あんまりじっと見ていると、呑まれるよ」

任務中に、カカシが偶に覗かせる、酷薄な忍の性質を、唐突にその冷たい声に感じ、サクラははっとして顔を向ける。
先程まで春の陽光が注ぎ、同じくらいにこにこと温かな笑みを浮かべていた彼は、無表情でサクラを見ていた。
急に、ざあ、と土手を風が吹き抜け、周りの草がうるさく擦れる。
耳を襲う不気味な風声に、ともすれば吸い込まれそうなカカシの片目に、思わずぞっと、血の気が引く。
空の青と、動く草のそれを背景に、じっと感情の籠もっていない眼に射抜かれるサクラは、見開いた眼を動かし、横目に前を確認する。
遠くに小さく見える桜の木々は、大きく枝を撓らせ、それでも綻んだ花弁は離さず地に踏ん張り、穏やかだった川面は、強風にぼこぼこと波打っていた。

「なんてね」

耳に届いた声に、再びカカシを見ると、彼はにっこりと笑みを湛えていた。
言葉の後、ドサ、と近くで音がし、カカシの姿が消える。
風が止み、サクラは彼の行先を辿り、草の上に仰向けになるカカシを認める。
両腕を後ろに組んで、其処に頭を乗せる彼に、穏やかな日差しが降り注ぐ。
そのまま昼寝をしてしまいそうに、半眼を閉じて微睡むカカシは、既にいつもの間延びした様相に戻っていた。

「……別に、桜を見ていたわけじゃ、ないです」

今の一瞬向けられた眼差しが、脳裏から離れないまま、だが幾らか気を落ち着けて、サクラは視線を川辺に戻す。
今度はゆるりと、和風に頬を撫でられる。
その程度の力では、遠目に見える桃色の花弁は、殆ど揺らされることなく、川面も平静を保っていた。
先程の“豹変”がまるで嘘のように、サクラの視界の先には、唯穏やかな春の情景が広がるばかりだった。

「じゃあ、何を見ていたの?」

眠りに落ちているのを否定するように、声が返され、サクラは返答に詰まる。
単純な会話の切り返しのようで、カカシの寄越したそれは、妙に的を得ていた。
まるで、最初から答などないだろうと、見透かされているようだった。

「いや……何を、考えていた?」

返事をしないサクラに、更にカカシが踏み込む。
目を瞑ったままだったが、的確なことを言い当てる声音に、先程射抜かれた眼差しが過ぎった。

「……別に、口出しするつもりはないけどさ。サクラはしっかりしているから、その必要もないと思うけれど」

返答に臆する雰囲気を察したのか、軽く息を吐き、カカシが脱力したようだった。
元から寝転んでいるのだから、力は抜いていたのだろうが、何か張り詰めていた空気が和らいだ気がした。
そしてそう言いつつ、サクラは、これから自分に“口出し”をしようという、彼の明らかな意図を感じた。

「あんまり、いない人のこと考えるのは……賢明じゃないよ。現実的でもない」

サクラの憂えることに、ぴたりと、それは嵌った。
決して、麗らかな春の陽気に誘われ、花見をしに来たのではない。

「サクラの周りには、沢山お前の助けを必要としている人達がいる。もっと目の前のことに、集中すべきじゃないかな。
今やれることを、確実に熟していけば良いんだよ」

一つ前の、暗い季節を和らげる日差しは、ヒトに厚い着衣を捨てさせ、またこれから来たる新たな生活に、仄かな期待感を持たせる。
只、どことなく、其処此処に漂うこの温かな気配は、感傷的な気分に自分をさせるのだ。
もしかしたら、それを想起するような“思い出”が、ある所為かもしれない。

「……ハハ、怒っちゃった?」

沈黙の後、先にそれに耐えられなかったカカシが、困ったように息を漏らす。
それは静かな、“激励”だった。
それは現実的で、サクラが望むものに近付くことを考えたら、妥当な判断だと思えた。
“たった一人”側に残った彼は、今も変わらず、サクラを気に掛けてくれていた。

「別に……。ただ……先生なら、良かったのに……って」
「……何が?」

意図の見えない呟きに、カカシの躊躇う心情が、僅かに窺えた。
サクラもまた躊躇いを見せながら、だが少しも怖じることなく、問い掛けに答えた。

「……すきなひと」

予想を超えた珍答だったのだろう、カカシが黙り込む。
或いは、自分が問うたくせに、狸寝入りを決め込んでいるのか。
当然と言えば、当然かもしれないが。

「……え、なに? それ。どういう意味?」

暫くして、今の一言をなかったことにするような卑怯な真似はせず、カカシが苦笑混じりに問い返す。
しかしそれには、サクラは返答を用意しておらず、再び黙ってしまうと、それでもうん、とカカシは頷く。

「……良いよ。サクラが辛いんなら……。いつでもなってあげる。ほら、オレの方がオトナだし、ずっと良い男でしょ」

カカシの戯けた声が耳に届くが、楽しい気分になどならなかった。
只、前方の穏やかな景色を見、殊更に思う。
本当に何と、春とは寂しい季節なのだろうと。
物思いに耽るサクラに、なんてね、とまた一つ戯けてから、カカシは真顔を作る。

「……でも、本当に辛い時は、いつでも言って欲しい。オレに出来ることだったら、何でもするよ」

では、カカシが“本当に辛い”時は、誰を頼れば良いのだろうか。
カカシとて、大切な教え子を失い、何も思っていない訳はない。
それでも、“彼”のことを誰よりも好いていたサクラだったから、其方の悲しみの方が癒えるのは簡単ではないだろうと、自らの傷心をそっと仕舞い、一人残ったサクラを気遣うのだ。

「じゃあ……今だけ」

だから、それならと、思うのだ。
どうせ煩わせているのなら、少しだけ、寄り掛かってみようかと。
“今”が、本当に辛い時なのだと、正にこの瞬間、分かったのだ。

暖かな春の情景を透かして、サクラは此処に居ぬ人を想っていた。
いつの間にか刻々と時が過ぎ、桜の季節になっていたことも、それが満開になり、綺麗な花を咲かせていることにも、気付かなかった。
あんなに空と対照的な色をしているものを、何故見落としていたのか。
そしてカカシにより、それに漸く気付いた後も、サクラの心が晴れることはなかった。
どうしようもなく、悲しいのだ。
暖かな日差しに包まれても、野に明るい春の花が咲き始めても、それと似た温かなものが、今は傍にないから。

ぶきらぼうな、でも時々優しくしてくれた。
サクラを置いて行った、とても温かな、かの――。

ああ、この春はと、声を大にして言いたい。
本当に、ああ何と、お前は寂しい季節なのか。

「今だけ……私のすきなひとに、なってくれますか?」



信じられないくらい、静かに、壊れ掛けた心を曝け出した。
振り返るサクラの、逆光で影の落ちている、その頬を伝う一筋の滴に、カカシは瞠目した。

「……サクラ」

さあ、とまた風が吹く。
顔の近くの青い草が揺れ、外耳にその響きが満ちる。
うるさいくらいのざわめきの中、同じように揺れるサクラの春色の髪は、音もなく彼女の顔に無遠慮に被さっていた。
少しの毛束を濡れた頬に貼り付け、静かに涙を流したまま、サクラが体を近付ける。
段々と、顕然と窺える、濡れた翡翠色の湛える深い悲しみに、その深い色で以てカカシは気付く。
いつも穏やかな海を思わせる彼女の瞳は、深夜に駆ける森のような深みと、哀愁を帯びていた。
そのうち、カカシをじっと見つめていた潤むそれが、視線の脇へと消える。
顔の周りにある草は、相も変わらず揺れていたが、刹那、音がしなくなった。
少しして、カカシの首にきつくしがみつくサクラの、やめるという小さな声が聞こえた。

「わたし……も、やめる……」

青と薄紅が、同じ視界に佇む。
ついさっき見た組み合わせのようで、だが今は天を仰いでいるカカシが目にするには、それは些か奇妙な光景だった。
吃驚し、未だ視線を空の青から逸らせないままに、カカシは自分に覆い被さった彼女の重量を妙にリアルに感じていた。

「もう、やめます……っ、先生に、する。カカシ先生に、する。先生は、どこにも行かないから。置いて行ったり、しないから」

涙で声を詰まらせながら、耳元で必死に言葉を伝えるサクラを、カカシは宥めるように、そっと背を受け止める。
激しく咽んで跳ねるそれは、昔のものより幾分肉厚であった。
新たな師の元で修行に励み、筋をつけ、いつの間にか、彼女は剛健なくノ一へと変貌を遂げていた。
しかし、どうあっても、未だサクラは、カカシの生徒であった。
仮令これから何年経とうと、こんな風に不安を溜め込んでしまう彼女の拠り所は、カカシの他、いないのだ。

「うん……そうだね……。その方が楽かもしれない、サクラ……でもね」

成長はしても、まだ小さく少女のあどけなさの残る細身の背中を、ぽんぽんと掌で触れながら、少女を留まらせる言葉を、カカシは探す。
状況は、決して良いとは言えない。
幼い頃よりの思い人で、病的なほどにそれに固執していたサクラであったから、もうこの辺りで、踏ん切りをつけさせるべきなのかもしれない。
だが生憎、師として、自分の生徒に諦めなんて、弱腰の精神を教えた覚えは、ない。
後にも先にも、たった三人だけの自らの生徒らに、カカシは全身全霊で以て、決して挫けぬ不撓の精神を、敵に立ち向かう自らの背を見せ示してきた。

「サスケは少し血迷っているだけで、ナルトだって、ちょっと修行の旅に出ているだけなんだから。そのうちひょっこり、帰って来るから……待っててあげなさいよ」

ね? と胸に詰まらせたモノが通り過ぎるように、首にしがみつくサクラの背を軽く叩き、優しく言い聞かせる。
しっかりしろと、挫けるなと、決して、咽ぶ少女を厳しく叱咤することは出来なかった。
この逞しくも弱々しい肩を抱き、更にそれを追い詰めるような真似はしたくなかったし、それ以前に、カカシの性分には合わない。

「でもぉ……でも、もうわたし」

“彼ら”の中で、最も聞き分けの良い筈のサクラが、抱き付いたカカシに擦り寄り、止まらぬ雨で彼の顔を濡らす。
絶対にもう嫌だと、暗に示唆する強固な意思を、回された腕に籠められる、切ないほどの力に感じる。
サクラが預ける華奢で鍛えられた体を、カカシは腕を回ししっかりと受け止める。

「それまでは、オレが、サクラの側にいる。オレが、サクラの“すきなひと”だ。ずっと、近くにいるから……一緒に待っていよう?」

或いは、共に、“取り戻しに”行こう。
一人二人と、常に一緒だった班員を失い、サクラは、取り残されたように思ってしまっているだけなのだ。
それが傷心を慰める、子供の飯事のようなものだとしても、そうする義務が、此処に留まったカカシにはある。

サスケが里を抜け、ナルトが長期間の修行の旅に発ち、事実上、班は解消していた。
しかしこれで、最初で最後の師弟関係まで終わらせる気など、カカシには更々ない。
このまま終わるなど、班の皆を愛し、そして皆から愛されていた、彼女が可哀想ではないか。


サクラからの返事は、なかった。
彼女は唯泣き続け、カカシに縋り付くだけだった。
それでもその中に、カカシの決意に頷いたような、静かに呼応するサクラの意思が、一瞬きらりと見えた気がしたのは。

青と薄紅の、中間に注す。
春の陽光に、透き通る。
顔に降る雨粒の所為、だったのか。
分からないまま、カカシは力一杯、たった一人残った教え子を抱き締めた。





(『春の5題』より)

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