NLCP*ブック

□海水浴
1ページ/4ページ



涼しい座敷に通され、向かいに座す伯父を、ネジはじっと見据えた。
暑い日だからと、氷の浮かべた冷たい緑茶を出され、目上の者からの労いに軽く頭を下げるが、それを口に含む間もなく、固まった。
ものの数秒前、少し頓珍漢なことを言われた気がして、返事に窮していた。
自分は、幾分疲れているのか……任務明けである自身の、空耳かと訝り、はい? とネジは無礼のないよう慎重に聞き返す。

「ネジ。お前、海に興味はあるか?」

そしてまた、何の脈絡もないことを、いつも通りの凛々しい顔付きで、ヒアシは繰り返す。
自分も年を取れば、怒ってもいないのに、このように眉間に深い皺が刻まれてしまうのだろうか……と、あまりに“作り”が似ている伯父の顔に未来の自分を重ね、脈絡のないことをネジは浮かべる。
それ程に、意図の読めない話だった。
一に鍛錬、二に鍛錬と、日々細やかに道場を仕切る、頗る真面目な当代随一の宗主には、少なからず影響を受けた。
一族を統べ、未来の日向を真摯に考える、その直向きな姿勢は、景仰するに値する。
だから、偶に班員のからかいで、何も面白くはないこの男と、一括りにされるのは、ネジにとっては密やかに、至上の褒め言葉でもあった。
だから、自分の力量を、若しや推し量っているのかと。
単純な質問の真意を、心静かに深読みしようというネジの、その目論見を、ヒアシは見事に裏切ってくれた。

「どこでそんな話を耳に入れたのか……急にハナビが、見たいと言って聞かなくなった。父親の言う事も、聞かない。どこで育て方を、間違えたのか……」

「はい……? ハナビ様、ですか」

思いがけずに出た、知った従妹の名に、ネジは些か目を開く。
ハナビ、とは、自分より六つ下のそれで、ヒナタの妹にあたる少女。
ヒアシや、既に頭角を現している、分家のネジを追随せんような、秀でた柔術の才能から、かなり尚早ではあるが、次代の宗主の器であると見込まれ、ヒアシの元、日々鍛錬に明け暮れている。
その、優秀な愛娘も、やはり年相応に、子供らしく遊んでみたいということか。
察しをつける、ネジの眼差しに、否定することなく、ヒアシは何か考えるように瞼を下ろす。

「ヒナタと違い、積極性があり、何にでも興味を示す。知っての通り、物怖じしない性格が、長所だとは思う。しかし、中々に頑固に育っていてな……」

湯呑みの中で、カラン、と音を立て溶ける氷が、何か滑稽だった。
この蒸し暑い日に、難しそうに腕を組んだ伯父が、対面した甥相手に子育て論を切り出した。
育て方というか、それはハナビが生来から持ち合わせている性質で、ただ単に、自身の“頑固”が、彼女に遺伝しただけではないかと、薄らと思い浮かんだが、ネジは黙っていた。
このように、偶に宗主の漏らす話の聞き役になるのは、今となっては珍しいことではなかった。
それ程に、ネジに厚い信頼を寄せている。
しかし、こと鍛錬に限らないとなると、独身の甥としては、どう受け止めたら良いか、分からず、はあ、とネジは曖昧に頷く。

「いや、育て方を間違えたとは、思わない。母親の欠けた環境でも、あの子の子供らしい、無邪気な面を伸ばそうと、私は尽くしてきた。ハナビの方が、聞かないのだ。どうしても行くと、一人でも行くと言って、聞かない」

この場面に於いては、自分の非はないと、存外に自信を持って、彼は言い切った。
我が侭を言い困らせているのは、ハナビの方なのだと。
無邪気な面が、伸びすぎたか。
控え目に、物言いたげなネジの眼が、ヒアシを注視するが、別に、彼の育て方云々を責めるつもりはなく、只ネジは首を捻った。
それは少し珍しい話だった。
厳格な父に今日まで育てられ、普段から聞き分けの良い筈のハナビが、こんな風に駄々を捏ね、理由もなく誰かを困らせることは、しない。

「それなら、思い切って、手の空いている日向の人間を、同行させてみては……コウ殿は、どうなのですか」

只、そんなに行きたいのなら、行かせてやるのも、手かもしれない。
大体普段から、ハナビは同年代の友達もおらず、子供らしく遊ぶ機会が、ないのだから……偶にこんな時くらい……と意味を含ませ、ネジは提案する。
理由は定かではないが、父と同じく、修行一色に染まった愛娘の、滅多に聞かれぬ“我が侭”を受け、ヒアシも、そうしたい気は、山々であるだろう。
しかし、こうして渋って、決して口には出さぬが、娘の為に一肌脱ぎたいと、本心では思うヒアシは、簡単には私的な用事で家を空けられない。
だから、ヒアシが同行出来ないのなら…と読み、宗主の身の回りの世話や事務手続きやらを一手に引き受ける(主に雑用係とも言う)、その側近を挙げたネジだったが、そう言えば、いつもヒアシの側を離れない、彼の姿がない。

「生憎、コウはこれから、私と共に一宮家に出向く。火ノ国の、債券を買っている華族との、重要な会食会だ。前々から決まっていたし、こればかりは、断れなくてな……」

ネジの案に、気分を害することもなく、それはもう一通り考えたことと、落ち着いてヒアシは返す。
ツウと、苦悶の浮かぶその視線が畳を辿り、ネジを見る。
手の空いている、日向の人間…。
考えずとも、先に告げた自身の言葉の矛先が、嫌と言うほど分かってしまい、ネジはまたも固まる。
いや、それ以前に、最初からヒアシは可笑しなことを言っていた。
唐突に海の話を持ち掛け、そしてハナビが、海に行きたいと言って聞かない……。
ああ……そういうことかと、伯父の目論見に、やっと気付いたネジだが、時既に遅し。
ネジは既に、彼の“領域内”に、入っている。
きっとこの座敷に、通された時点で。
冷えた茶まで出されたら、逃げればその心遣いを無下にすることに、なる。
膝の上に置いた、拳を握り、逃げることも出来ず、ネジはヒアシの醸し出す、張り詰めた空気に緊縛されていた。
崩して良いと告げた足を、いえ……と、畏まって折り畳み、今も堅苦しく正座を貫くネジを、ヒアシの眼差しが射止める。
向かいに座す、この自分に似て酷く生真面目な甥は、八方塞がりになったヒアシに射す、言わば一筋の希望の光だった。


――ネジが、丁度帰って来る。
割かしとヒアシが“親ばか”だったというのは、ネジの読み通りであった。
常になく反抗的なハナビを牽制しつつ、その実ヒアシは内密に、ハナビの外出の話を進めていた。
ハナビの護衛役に適任なのは誰かと、悩んでいた折り、そういえばと、数日間任務で不在だった、甥の存在を、唐突に思い出し(それも失礼な話だが)、急速にヒアシの心が晴れる。
分家ではあるが、何より日向の、いや、最早木ノ葉の誇る沈着な忍、その実力も申し分ない。
ああ、それなら、ネジに行かせようと、軽率に取り決めた。
ネジの承諾もなしに、帰還後にあるだろう、彼の予定など、一切知らぬ振りして。
帰還の報告に、宗家を訪れたネジを、囲うようにして。
涼しいからと、奥の間に彼を招いて、秘密裏に。

「あの、ヒアシ様……オレは……今、里に戻ったばかりで……」

不在中の書簡も、溜まっていて…、困惑気味にそう続くネジの声は、徐々に小さく消え失せる。
頼む、とヒアシが畳に両手をつき、そうせざるを得なかった。
普通、最大限に相手を引き立たせ、自らを下等なものとして見せるそれを、ヒアシは逆手に取ってくる。
分家出身の、天才とは言われるが若輩者であるネジ相手に、このように頭を下げれば、断れないことを、知っている。
何も、二人の立場は変わってはいない。
只々、無言の威圧だった。
ネジよりも目線を低くしながらも、ヒアシは逆に、優位に立つ。
頼む、ではない、頼まれろと、前屈みになり見えた彼の背が、無言でネジに命ずる。
ハナビの方は、引かない。
ならば此方が、彼女に合わせる他、ない。
娘の為に、ここまでするとは…、ヒアシの持つ驚異的、且つ確固たる“信念”は、ネジに暫く言葉を忘れさせる。
此処が夢か現か、意識が混濁するような気がするのは、ただ単に任務の疲れだけが齎すものでは、ない、恐らく。
深い溜め息を、辛うじて辛うじて、ネジは胸の中に押し込み、それでも言葉が閊えて出てこない。
端整な顔を、心なしか歪め、ヒアシに負けないくらいに眉間に難しい皺を寄せ、しかしこの“勝負”に至っては、あっさりと白旗を上げた。
彼の“信念”、宗主が頭を下げるという、異例の光景に、眩暈を覚えつつ……ネジは頷くしか、なかった。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ