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□仏間にて
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言葉なくハナビはネジの少し後ろを歩いていた。途中花屋で買った仏花を、傷まないように配慮して指先で摘まみ持つ。風に吹かれて、細かく震える花弁をじっと見ているかと思うと、首を上げて、見慣れない景色をキョロキョロと見渡している。
明媚溢れる木ノ葉隠れの里だが、中心地から離れると、一層緑が多くなる。何が彼女の気を引いたのか、何でもなく揺れては擦れる木々の葉を、ハナビは飽きもせず物言わぬ眼差しに映している。
緑を揺らすのと同じ風が、二人の間にも吹いて、さらさらとした子供のように柔らかな髪の毛を舞い上げた。
初めてハナビを、ネジの自宅に―――更に正確に言うと、仏間に上げた。日向宗家の人間が、このような僻陬にある分家の住まいまで足を運ぶことは、本来なら望ましくない。ただ、ハナビが『言い出した』。顔も知らない叔父を、ネジの父の顔を、一度見てみたいと。
ヒアシにのみ確認を取って、ネジはこっそりとハナビを連れ出した。訳を話せば、ヒアシが渋ることはなかった。それどころが、人払いをして、気を付けて行ってきなさいと、玄関に見送りにまで来てくれた。ヒアシも、暗に望んでいたことなのかもしれない。ハナビには、何れ向き合わなければならない日向の呪われた因習がある。
「……若いころの父上……?」
「そうですね……本当に良く似ています」
仏壇の前に案内すると、ネジに言われてハナビは座布団の上にちょこんと正座をする。暫し遺影の人物に見入っていたハナビは、どこか呆けているようだった。開口一番に出た独り言のような疑問には、多少の混乱が読み取れて、ネジも思わず微笑んだ。
「ええと……どうすればいいのかな」
若き頃のヒアシを彷彿とさせる、亡き叔父のその横に、そっと花を手向けた。そこまでは良いが、ハナビは少し困った顔をして、隣に座すネジを見上げる。まだ年若いハナビには、遺影との対面の仕方が分からない。花を置いて、役割を失くした両手が、所在なく膝の上を彷徨う。
「……手を、合わせてもらえれば。喜ぶと思います」
不安を露わにするハナビに対して、何も難しいものは求めなかった。ネジの穏やかな声に、導かれるようにしておずおずと小さな手が顔の前で重ねられる。今まで目にしてきた大人達の、見様見真似か、そこからハナビは自分から瞼を下ろして仏壇へと黙祷をする。
これでいいの? 大人びた顔が一変して、円らな瞳が開くと秘め事のようにこそりとネジを窺う。見上げてくるハナビの、今度はあどけない表情に、ネジは目元を緩めて返事とした。
ネジが、仏壇に供えてあった菓子を手に取って、ハナビに渡す。珍しいことに、いつも供物の殆ど置かれることのない物寂しい仏壇には、この日は貰い物の菓子を添えていた。任務で家を空けがちなネジは、中々新鮮なものを買って来られない。
「父に、紹介してもいいですか?」
「え……? 何を…?」
子供らしく、中身に興味はあるが、貰っても良いものか、菓子を手にハナビは考えあぐねているようだった。
詳しいことを省いたネジの尋ねに、『俵最中』と書かれた膨れた個装を見つめていたハナビは、ゆるりと眼を向ける。
「あなたを。……これが、オレの……大切な、従妹の女の子だと」
「そっか……おじさまは、私のこと、知らないものね」
何気なく、内心では意味のある言葉を並べたネジに、ハナビは単純に得心した。ハナビが初対面なら、写真に写るこの叔父も、そうであろう。手を合わせはしたが、知らない子が来たと思って、首を捻っているかもしれない。
じゃあ、紹介してくれる? とにこやかにハナビからも頼まれるので、ネジは姿勢を正して、真正面から遺影を見据えた。
ネジの横顔を見つめていたハナビも、菓子を膝に置いて前を向く。
二人で揃って、ヒザシの顔を見る。
一呼吸置いて、ネジは写真の中の父へと、頭の中で語り掛けた。
――父上。
これが、オレの、大切な女の子です。
全身全霊で、これから守らなくてはいけない人です。
宗家の人ですが、そういう理由で、オレは決めたのではありません。
その為に、父上のように命を落とすこともあるかもしれません。
それでも……オレは誰よりも敬愛するあなたの前で、誓います。
生涯、命尽きるまで、オレはこの人をお守りします。
「兄さん、まだ『紹介』終わらないの?」
瞼を落として、静かに頭上に向かい決意を述べるネジを、ハナビが袖をちょんちょんと引っ張って現実に戻した。目を開けると、心配そうに眉を曇らせて、ネジを覗き込んでいる。邪魔をしないようにと、堪えていたが、余りに黙り込んでいるから声を掛けたようだ。
「いえ、終わりました」
知らずの内に体が力んでいた。張っていた気を緩めて静かに息をつく。何事もなかったように座り直すネジを、ハナビはじっと見つめる。
「何て言ったの……?」
沈黙に仏間が沈む。祈りを捧げていた時とは違う種の無言だった。ハナビの投げ掛けた簡単で難しい質問の答を、ネジは視線を畳に伏せて押し潰した。
「……ハナビ様も、良かったら話し掛けていってください。折角来たので。喜ぶと思います」
あなたを、生涯守り抜きたいと、そう言ったんですよ。
言葉の裏に潜めた何よりも尊い感情を。ネジは一生ハナビに告げる気はない。
ヒザシはきっと、ネジを見守り、その選択肢、生き様全てを見届けてくれる。
日向の名に恥じぬ生き方を――。そう激励してたった一人の味方として、ネジの決意を後押ししてくれる。
「おじさま! ネジ兄さんには、私がついているから! 心配しないでね」
隣で明るく弾けた声に、ネジは我に返った。話し掛けろと言ったら心の中からではなく本当に話し掛けてしまっている。けれど秘密を作ったネジよりハナビはよっぽど潔い。こんな風に純真でいられたらと、遺影に笑い掛けるハナビが少し羨ましくなる。ネジが此処で笑ったことなど、一度もないから。
「……逆ですよ、ハナビ様……」
眩しい笑顔に目を細める。いつもと違って日の当たらない仏間が春のように暖かい。今度、季節の花でも買って来ようか――。
ネジの言葉が気になったのか、ハナビが元から大きな目を零れそうな程に見開く。しかし実際には、春のように柔らかく微笑うネジの表情が、ともすれば泣いているように見えたのだ。
ネジ兄さん? という微かな問い掛けに、いや、とネジはゆっくりとかぶりを振った。ハナビの手元から落ちていた菓子を、畳から拾い上げて彼女に渡す。『俵最中』と書かれた個装を両手に持って暫く眺めていたハナビは、やっぱり中身を開けずに、ネジに尋ねる。
「私……また来てもいい? またきれいなお花、ここにかざりたい」
余りにも殺風景な仏壇に、駆り立てられたのだろうか。純真なハナビの申し出は、ネジの胸を殊更優しく締め付けた。ハナビの元気な姿を見れば、ヒザシもきっと喜ぶ。
「ええ……勿論です。また一緒に、花屋に行きましょうか」
次の約束を取り付ければハナビは嬉しそうにする。ネジとて弾むような心持ちだ。余り表には、現れないけれど。この寒々しい仏間に、春を添えるように、ハナビがまた来てくれる。
それなら年下の従妹を迎えるに相応しく、今度は茶菓子も用意しておこうか。
宗主とは違って、存外に甘党だった父のことも、今になって思い出した。
父の分と、ハナビの分。
二人に仲良く、食べて貰えるように。
(了)