さて、月霞むその夜を抜け
□前夜
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あれにひかっておるのはなんじゃ。
彼女はそのいとけない声には答えず、にこりと笑みを浮かべ、彼方を指差す声の主の小さな身体の前に立ち塞がるようにして『ひかって』いるものからその幼子を隠した。
寝ている所を起こした為に、何処かほやんと、まだ夢の内にいる様な表情である幼子の手を握ればじとりと熱い。
いや、自分の手が冷えているのだ、と、彼女は思い直す。
冷たい手に反して、背中は火が着いた様に熱く、然し、感覚は殆ど無い。
彼女の背は、夜の闇の内にも分かる程に真っ赤に染まっていた。
脂汗が流れる。
彼女は息を吐き、それは生臭い。
彼女は、確かめるように幼子の手を握った。
握りこんだ小さな手の熱も分からなくなりだしている。
真っ直ぐであった姿勢が少しずつ崩れて、彼女はそのまま幼子の前に膝を着いた。
「オウギ、どうしたのじゃ」
彼女は幼子の問いにまた笑みだけを返す。
言葉を発しようとすれば、喉を生臭い塊がせりあがる。
彼女は小さく息を吐き、微かに唇を開いた。
「少しだけ休みましょう」
漸く、それだけを、掠れた声で言い、震える膝を立て、ぐらっと揺れるようにして立ち上がる。
不思議そうな表情の幼子の手を引き、よたつく足で彼女が辿り着いたのは、木立の奥、一本の大木に穿たれた虚であった。
彼女は霞む視界にも目を凝らしながら、その虚の内へ幼子を座らせる。
「さ、どうか奥へ、身を小さくしてくだされ」
「オウギ」
幼子の声に不安が混ざった。
名を呼ばれ、彼女はまた笑みを浮かべる。だが、それは幼子の目にも辛うじて笑みに見えなくもないといった淡い表情であった。
「隠し鬼、なのですよ」
唇に添えられた指の奥から、殆ど息のような声がする。
「お父上が、鬼ですからね。私が、良いと言うまで、出てはなりません、よ」
幼子は少しの間を置いて、こくんと、一つ頷いた。
彼女は、また淡い笑みを幼子に差し出し、それからその虚の外へ、背を預けて座る。
力の出ない手に刺刀を持ち。大きく息を吐いた。
少し休むだけだと、彼女の視界は少しずつ明滅し、やがて瞼は完全に落ちる。
遠くで勝鬨が聞こえる。
勝鬨が、聞こえる。
それを最後に、彼女は沈黙と闇の内へと真っ直ぐに落ち込んでいくのであった。
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