さて、月霞むその夜を抜け
□奇妙な再会
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ああ、やはり自分は悪い夢を見ている。
彼女、湊川オウギは、知らず唇を噛み締めていた。
何時の間にか、部屋の空気は冷たく、眩しい程に賑やかな子ども達も静まり返っていた。
マツホドの仕事仲間であった浜玄一郎の曾孫だと名乗る少年、浜守一郎の隣に立つ老翁。
その面影は大川平次渦正よりもはっきり捉える事が出来た。
当たり前だ。彼はオウギが幼い頃から先の隊長の次に彼女の側にいた男だ。
口悪く態度も横柄で金にがめついが、ずっと彼女の影となり日向となっていた男だ。
彼女が裏切った男だ。
「オウギ」
名を呼ばう、掠れた声が、彼女の胸の奥の寂しい風の吹く場所に届いた様な気がした。吹き荒れる大風の気配にオウギの喉がひくと上下する。
感情の高ぶりを抑える為か、無意識にオウギの指は、流した膝の上に組まれ、筋が浮き上がり震えるほどに力が込められていた。オウギの唇から漏れた息もまた震えている。
動けない。
老いた玄一郎もまた、動かない。
「……玄一郎殿」
どれ程そうしていたか。漸く出たオウギの声は掠れてはいない代わりに湿っていた。震えているのは玄一郎と同じだ。
玄一郎も身動ぎする。前進とも後退とも見える動きであった。
「…………よくぞ……落ち延びられましたな」
オウギが言いたかったのはその様な事では無かった気がする。
口から転び出た様なその言葉と共に、視界が歪みそうになりオウギは慌てて下を向いた。
首を俯け瞬けば、組んだ指に、震える腕に、心許ない膝に雫がぱらぱらと落ちた。
「……相も変わらず、妙な泣き方をする」
玄一郎の声がした。
床が軋む音がする。
伏せた視界が、影になる。
「オウギ、じゃな」
肩に置かれた震えた手は滑るように動いて、背を丸めたオウギを抱え込むようにした。
玄一郎からは乾いた枯野の様な匂いがする。
これは私の胸の内の景色の匂いそのものでは無いかと、オウギは落ちる雫を見つめながら、そんな事を思った。
落ちる雫が、悲しいものなのかが分からない。言葉にするとしたら、苦しい。ただそれだけだった。
妙な泣き方をする。
そう、曾祖父が言った事で、俯いたオウギが泣いているのだと守一郎は気付いた。
気付いた、と共に、思い出した光景があった。
幼き日の頃だ
曾祖父の厳しい修行が嫌で泣いて、擦って真っ赤になった目と鼻を見た父が、濡れた手拭いで守一郎の顔を拭きながら話した事だ。
「忍になる奴が、そんな赤い顔させて泣いてどうする守一郎」
声はぶっきらぼうなのに、顔を拭う手付きは柔らかいものであるから、また後から後から涙が出てくる。
「だって、勝手に出んだもん……」
情けない鼻声に、父が小さく笑った。
「あのな。顔をぐうっと俯けるんだ。瞬きしたら涙は下に落ちるだけだ。赤くもならない。泣いたこともばれない」
守一郎は、言われた通りにやってみる。
でも駄目だ。潤んだ目が熱くて、鼻水が湧いて、手が勝手に顔を擦ってしまう。
「うぐ……難しいよ、父ちゃん」
「ああ、擦るな擦るな……爺さんに教わったやり方なんだがなあ。そうか、お前にゃ難しいか……」
再び押し付けられた手拭い。鼻を盛大に啜ればまた父が笑う。
父もまた忍であったが、マツホドの名の為に大成は叶わなかった。
そんな事を、今、思い出した。
ああ。と、守一郎の唇から、勝手に声が漏れた。嘆息のようなそれに、勝手に胸が苦しくなる。
曾祖父が父に教え、父が自分に教えたその泣き方は、この人のものだったのか。
曾祖父がよろよろと、オウギに近付いて、丸めた小さな背を抱え込むようにした。
守一郎は手をぎゅっと握り締める。
まるで、己が、彼女を抱きしめたかの様な、そんな錯覚が一瞬過った。
「オウギ、じゃな」
確かめる様な、曾祖父が彼女を呼ばう声。今まで聞いたことも無いような声だった。守一郎はそこに確かな情を感じる。
悲しいのとは少し違う。
何故か知らぬが、胸が苦しい。
守一郎の足が、曾祖父と同じ様によろよろと動いた。
オウギを抱える曾祖父の、震える肩に、もたれるようにとも支えるようにともつかぬ手を置いた。
部屋の中は、ずっと静かだった。
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