さて、月霞むその夜を抜け

□交わされる諸々
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 見返しはしたが、何か言わねばならぬ様な気もしたのだが、言葉は出てこない。オウギは、ただ、薄く開いた口を閉じた。『居心地が悪そう』と、喜八郎が言った事は的を得ている。忍として看破された事を恥じるべきかとも思うたが、そも、己が置かれている状況で居心地が良い等と思うことが果たしてあるのだろうかとも思う。

「行かないなら、座れば?」

 オウギの目線に気圧される事も無く、喜八郎が言う。
 オウギは、立ち去ろうと思う自分と、このままでは去れないと思う自分とが、自分の直ぐ背後で何度も去来する様な気分だった。身体が奇妙に重い。これが戦いの場であれば、間違いなく死地であったろうが、殺伐たるオウギの胸中に反して、眼前の喜八郎は窓からの穏やかな日に照らされ、ゆるりと脚を投げ出してのんびりとしているのである。
 目眩を感じた。それと同時に、気が付けば、オウギはその場に腰を下ろしている。

「……此方は、穏やかで、平らかな場所だと、そう思うております」

 漸く、口から出てきた声は、掠れた響きで、話す端から何処かへ消えていく様だった。喜八郎は、文机に肘をついて、また眠気が来ているのかぼんやりとした表情である。此方の話など聞いていない様な喜八郎を前にして、然し、オウギの口は、また開く。

「忍を志しながらも、子どもらが、子どもらしくあれるのは……稀有な事では無いかと」
「で、それが気に食わないんですか?」

 肩が小さく震えた。喜八郎は、変わらず文机に肘をつき、目をぼんやりと伏せている。

「気に、食わぬ事など……」
「そんな声と言い方でしたけれど」

 オウギは、知らず、自分の唇を手で抑えようとした。それに気付いて、ぎくしゃくと下ろした手は、膝の上に所在無げに乗る。
 気を悪くさせたのだろうかと、喜八郎を伺い見れば、彼はまた「ふああぁ」と、盛大な欠伸をする。なんら気にもしていない、先程から興味の一つも無い態度に、オウギは戸惑う。何やら馬鹿にされている様な気にもなった。

「ま、あなたがどう思っていようと僕には関係無いし興味も然程無いです」
「ならば、態々、聞く必要もございませんでしょう」
「僕は見たままを言っただけ。そっちが勝手に話し出したんじゃないですか」

 オウギは、小さく溜め息を吐いた。成る程、彼は中々曲者の様だ。性格が宜しいとは言い難い。自分も他人の事は言えないが。

「ええ、そうでございましたね」

 ならば、だからこそ、寧ろ、やり易い。
 オウギは、また息を吸って吐いた。悔しいかな、此処に来てからある意味漸く、穏やかに息が出来たように思う。
 
「気に食わぬ、というよりは、とある方の事を思い、口惜しく思うただけにございますよ」
「ふぅん」

 喜八郎は、一貫して興味無さげだ。それが有難い。猫の子に話す様な気楽さがある。

 喜八郎の眼差しが上がった。
 その理由は、つい先程、開いた教室の戸のせいだろう。
 戸を開いた人物は何を言うでも無く、そこに佇んでいる。

 オウギは振り返って、入り口を見る。

「守一郎殿」

 そこに立ち尽くしていた浜守一郎に声を掛ければ、彼は呆けた表情をはっと一瞬固くし、それから何とも言えない曖昧な、強いて言えば苦笑の様なものを浮かべた。

「タカ丸さん、喜八郎いましたよ」

 然し、その苦笑も一瞬で消えて、普段の意思の強そうな顔立ちに戻り、廊下に声を掛けた。

「喜八郎はいませーん」
「ああ、いたいた喜八郎……あれ? オウギちゃんもいる」

 文机の陰に態とらしく身体を隠そうとする喜八郎と、教室に入ってきて不思議そうに自分と喜八郎の顔を見比べるタカ丸と、未だに教室の入り口に所在無げに立つ守一郎。
 己の調子を狂わす者達がこうも揃い踏みになるとは。と、オウギは俯かせた顔を密かにしかめる。

「ねぇ、喜八郎。仕掛罠について教えてくれる約束だったでしょお?」

 タカ丸は、文机に身を寄せる様にして猫の様に身体を丸めている面妖な姿勢の喜八郎の背中を指でつつく。その表情はオウギも良く見る蒸し饅頭を思わせる笑顔だ。

「気が変わりましたぁ、僕、眠たいんでぇ」

 喜八郎は丸まった姿勢のまま、くぐもった声で言う。

「うぅん、そっかぁ……あ、オウギちゃんは、どうして此処に? 何してたの?」

 立ち上がろうとした瞬間に、タカ丸がそう問いかけるものだから、オウギは膝を僅かに浮かした妙な姿勢のまま、一瞬固まってしまった。

「……事務室より預かりましたものを、四年生の各組に配って回っておりましたら、喜八郎殿のお休みのところに行き逢いまして、お邪魔を致しました」

 立ち上がってそう述べる。
 見下ろした喜八郎は未だ背中を丸めている。

「そう。じゃあ、は組の分は俺が預かるよぉ」

 そうタカ丸が手を差し出してきた。
 その穏やかな仕草とにこやかな表情に少し後退りしたい気分になりながらも、オウギはタカ丸の手の上に紙の束を置く。

「お手間をお掛け致しますが、生徒様方にお配り願えますか」
「うん、任せて。ろ組の分は守一郎に渡しておけば良いよ。ね、守一郎」

 タカ丸がそう守一郎に声を掛ければ、未だ入り口に佇む守一郎は僅かにびくりと身体を震わせる。

「えっ、俺……あ、はい……そうですね。大丈夫です」

 歯切れ悪くもごもごとその様な事を言いながら、目を泳がし、やがてのろのろと教室へと入って来た守一郎の、その様子を不審に思いながらもオウギは「お願いできますか」と、最後の紙の束を差し出した。

「はい。まかせてください」

 紙の束を受け取った守一郎は、先程見たあの曖昧な苦笑めいた表情を浮かべているのだった。


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