さて、月霞むその夜を抜け

□水底に積もるように
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「明日、私は、結丸様とのお約束がございます。何かありましたら玄一郎殿を頼ってください」

 粥の入った椀を差し出しながらオウギが言った。渦正は椀を受け取りながら分かったと答える。夕餉の席だった。

 オウギに拾われた渦正は、オウギの家で寝泊まりしている。まあ、当然と言えば当然なのだが、最初の頃は、嫁入り前の娘と閨を共にする等と辟易したものだった。
 然し、当のオウギと言えばあっけらかんとしたもので、「拾ったのだから寝食の面倒を見るのも当然でしょう」と宣うのである。果ては「何を気遣っているやら知りませぬが、渦正殿はよもや私に夜這いを掛けれるなどとお思いか」と笑うのである。
 そうして半ば強引に、なし崩し的に渦正は軒下でも土間でも無く、オウギの気配を直ぐ側で感じながら床の上で寝起きする事となった。最初は目が冴えて落ち着いて寝る事も出来なかったが、今では何という事も無く寝食を共にしている。慣れというものは恐ろしいなと、渦正は他人事の様に思う。

 オウギの家は、粗末ではあるが、娘一人が暮らすには大き過ぎるぐらい充分なもので、彼女が言うには、元は先の隊長と共に此処で暮らしていたそうだ。親代わりでありながら己に呪詛の言葉を吐いて死んだ男が過ごした家に、共に暮らした場所に、今も平然と暮らしているオウギの心情というものが、渦正には今一つ図りかねるのだった。

「結丸君というのは、確か、あなたの主か」
「ええ、渦正殿は以前、お姿を見られましたな」

 オウギは嬉しげな表情で、それはそのまま、少し前に件の結丸君を前にしたオウギの愛しげな微笑みと重なった。

「ではあの方が、マツホドの次期当主なのか」

 渦正にとっては何気無い一言だった。だが、オウギの目許に少し何か堅いものが過ったのを見て、おや、と思う。

「ええ、大殿はそのお積もりの様ですね」

 然し、彼女とて忍である。直ぐに表情は元通りの柔らかなものへ戻った。

「大殿……? マツホドの現当主の意向は違うのか?」

 大殿というのは、隠居した当主を指すのだろう。マツホドの現当主を渦正は思い浮かべる。老年といって良いぐらいに見えるあの殿の更に大殿となるなら、かなりの年寄では無いだろうか。それがまだ家督に口を出す権限を持っているとすれば、中々面倒な話である。
 さて、オウギといえば、渦正のその疑問に対しほんの一瞬、呆けた顔をした。それからはたと表情を堅くし、力を抜くように微かに息を吐く。
 その仕草は、彼女が何か、口を滑らしたかの様に、渦正には見えた。

「いえ、その様な事はございませんよ」
「そうか」
「ええ、結丸様は利発で、何事も良くお出来になる方でございますから、マツホド家中の者は皆、結丸様に期待を寄せております」

 そう答えたオウギは我が事の様に誇らしげで、それが渦正の目には微笑ましく感じられて、先程感じた一抹の違和感は流されたのだった。

 そもそも、拾われて、大袈裟かもしれねど命を救われた恩義を渦正はオウギに感じている。余所者の自分が下手にマツホドの事情を詮索すればオウギに迷惑が掛かるだろう。

 渦正は、そう考えた。

「オウギ殿は、結丸君が大切なのだな」

 故に、違和感は流したままにし、微笑みに変えて思ったままを口にした。
 オウギの顔に浮かぶのは、あの日見たような愛しげな笑みだ。

「ええ、勿論です」

 あまりにも愛しげで、いっそ切なげにすら見えるそれを、渦正は後に幾度か思い返し、あの時己が流した違和感について考えることになる。

 踏み込めば、何か変わっていたのかもしれない。

 後に、渦正はそう悔やむのだが、その時の彼は、目の前のオウギの、淡い朱に染まった様に見える頬をただ眩しげに眺めるだけなのだった。


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