花と嵐

□何時れかの春
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 暗中に浮かぶ相貌がある。雲海の内に月は隠れている。

 厚い雲の隙間より漏れ出づる僅かな光を、その瞳は貪欲に吸い込む。
 殊更に磨がれた鏡の如く白々と、そして鋭く。

 それは瞬く。
 瞳が閉じられれば辺りは微かに暗くなった様にさえ感じ、彼はいっそそれに落ち着きを覚えるのだった。

 それはまた開く。
 開いて彼を見る。
 ぬばたまを思わせる黒々とした眼は、暗澹からは程遠く、当人の内にある苛烈さはそこから爛々と溢れ出していた。
 真っ赤に焼けた火箸を喉元に突き付けられている様に、見られた彼の喉はひくりと上下する。

「勝つぞ」

 彼は問うたつもりはなかった。
 だが、目の前の瞳の持ち主は短くそう答えた。

 彼はただ、それに頷きを返した。







 畿内某所。
 春霞に沈み混む深山。その霞を纏う山門がある。
 門構えは山寺の様であり、日に焼けた漆喰塗りの塀が続く様と山門の奥に覗く物見台の様な高い楼閣は山城である様にも見受けられた。
 それを思った人物の見解はどちらも正しい。其処は城でもあり、また修練の場でもある。

 霞に濡れ滴る笠を煩わしく思い、その人物は顔を露にした。その隣に立つもう一人が「御髪が濡れます」と事務的な声色でそれを咎めるが、先程まで頭上にあった笠を片手にゆらゆらと振るだけで然して聞く耳を持たない。

 やや褐色を帯びた頬はぴんと張り摘めていて、その面の皮を鋭利に斬り開いた様な眼がある。目尻は殊更に米神に向かって跳ね上がっており、その形に似合いの黒々と野太い眉もぎりぎりとつり上がっていた。
 その様に目元ばかりが印象に残る為に、鼻筋の何処か品のある控えめさや、反して盛大にへの字にひん曲がり固まったかの様な唇はその後から遅れて目につく。
 外見のみを述べるなら、そんな人物だ。
 髪は茶筅髷。『御髪』と呼ばれるのに相応しい、纏めあげられたそれの艶やかさは、色褪せた簡素な上衣と袴を身に付けているその人物の身分を、今、最も良く表している。年の頃は十三、四ばかり。

「参りましょう」

 先程、咎める声を出した男が、また極めて淡々と事務的な声色で言った。こちらは年の頃は二十五かそれよりも上かに見える壮年の男。
 服の上からでも分かる、巌の様に鍛え上げられた体躯。然し仕草は、柳の葉擦れを思わせるしなやかさと静けさ。厳と柔の入り雑じる印象は彼が武の立つ人物である事を如実に語っていた。
 顔立ちは細面、流麗な眉の形、涼やかに切れ長な眼、通った鼻筋と品のある口元と何処か中性的。端的に言うならば美丈夫。

 春霞に沈む深山において、唯一の動くものかに見えたその二人の人物は山門を潜り抜け、辺りはまた静まり返るのだった。

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