花と嵐

□その息女
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「またですか」

 黄昏時忍軍の忍、高坂陣内左衛門は潜めた眉をそのままにそう嘆息した。
 齢は二十六、心も技も体も円熟し始めたこの働き盛りは昨年の初冬に忍軍狼隊の小頭に就任した。
 狼隊は忍軍に四つある小隊の内の一部隊であり、戦中における火薬の類いを扱う事を主とした後衛部隊である。
 血統と家柄を重んじる黄昏時忍軍において、勘当された身とは謂え生家は忍軍筆頭前衛部隊の月輪隊である陣内左衛門が、狼隊の長となったこの異例の人事にはそれなりのごたごたがあったが、漸くそれも落ち着いてきた頃であった。

「いや、遁走は始めてだと思うけど」

 そう微かに隻眼をひそめるのは雑渡昆奈門。
 件の異例の人事の発起人である黄昏時忍軍忍組頭。
 齢三十八。四十の大台の端が見えだしたこの頃の口癖は「早く隠居して田舎でのんびり暮らしたい」であるが、周囲からは稚児の戯れ言以下の扱いである。
 この男の技と統率力、求心力からして向こう十年はそれは叶わないのは自明の内だった。
 演習場で、若い忍達へ指導を奮っている陣内左衛門を尋ねた昆奈門は、目を掛けている側近の明から様な渋面に苦笑を浮かべる。

「そうでしたか。凪姫は屡々、何事かやらかしているものですからつい、またかという気が致しました」

「うん。陣左、嵐様は殿の息女だからね。忍組しかいないけれど口には気を付けようね」

 黄昏家中から誰彼ともなく言われだした凪姫の『嵐様』という通り名は黄昏時の民草にまで知れ渡っている。
 民の間にはその呼び名と名に違わぬ荒くれぶりばかりが独り歩きし、凪がおなごである事を知る者は滅多といない。
 『殿様の御世継ぎはなんだか凄いらしい』というのが民の間の話であり、然し、本当のところは嫡男等ではなく男顔負けの姫武将なのである。
 異常と言ってしまえば見も蓋もないが、何れにしろ、陣内左衛門は凪の事は宜しくは思っていない。

 陣内左衛門は容姿こそは清廉とした美丈夫であったが、そもそもの質が無頼漢であり、やや男尊女卑的な思考に加えて、こと敬意を払うか否かにおいては人の選り好みが激しく狭量な男である。
 陣内左衛門にとって最も敬意を払うべき相手は、今目の前にいる組頭雑渡昆奈門が至上であり、次点に城主黄昏甚兵衛と元狼隊小頭にして組頭御目付けの山本陣内。それ意外の者は彼にとっては道端のぺんぺん草程度の存在、と言ってしまえば過激かもしれないが、とにかく陣内左衛門にとっての末の姫武将様は、『破天荒で粗野で迷惑なおなご』の一言に尽きた。

「来訪した家臣方の馬をかっさらったらしい。まあ、馬で来たそいつが愚かと言えばそれまでだ。山に馬に嵐様となったらまあ面倒な事になったよねぇ」

 そう肩を竦める昆奈門は『面倒』と口で言いつつもその声は柔らかく、ちょっとした着物の綻びを憂えている程度の軽い声であった。
 そうして、昆奈門は隻眼に薄い笑みを浮かべて陣内左衛門を見る。陣内左衛門は胸中の疎ましさは極力表に出さないように細心の注意を払う。
 凪がどうこうではない。誰よりも敬愛する昆奈門からの下知であるからだ。
 昆奈門はまた薄く笑う。

「まあ、そんな渋らずに。何時れはお前の主君となる方だから」

「あり得ません」

 はっきりと切り捨てる様な物言いで言い放った。昆奈門は小さく溜め息の様なものを溢す。
 黄昏家に嫡男はいなかった。だがそれも、つい八日前までの話である。

 八日前に、側室が一人の産んだ子は男児であった。

「殿は本日はどちらにおられますか」

「懲りずにまた香波垂時の殿様を口説きに、春告げ峠に御遊山だ」

 陣内左衛門は何事かと呆けている若衆達に鍛練を続けるように指示を出し、地を蹴り上げ駆け始める。
 馬は要らない、戦忍は己の足のみで一日で千里を駆ける。
 遠ざかる耳に届いた「では久しぶりに私が若い者の相手をしてあげようか」と笑う昆奈門の声に、心底後ろ髪を引かれ、あの小娘は全くと、舌打ちすらするのであった。

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