花と嵐

□夕闇に立つ
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 黄昏時城から程近い禅寺である慧照寺に、『嵐様』こと凪姫を入れたのは黄昏時城主黄昏陣甚兵衛の意向であった。『嫡男』の扱いで、読み書き、兵法、禅の修練に励んでいたその寺から凪は遁走したのである。
 それから約四半刻後、高坂陣内左衛門によって、凪姫が家臣からかっさらったのであろう馬は見つかった。

 山道の一角で乗り捨てられ、樹に手綱を括られている様に、陣内左衛門は大きく嘆息する。
 もしここいらが山賊の出る場所なら、良いカモとしか言い様がないではないかと、分け入ったであろう跡のある藪道へ音もなく入る。
 程なくして馬の乗り主も見つかった。

 藪道の奥にしゃがみこむ影がある。
剥き出しになった脛は筋が張り出し、いかにも頑健な印象。其処に続く背も空気を裂いている様な存在感がある。
 柄も無い簡素な紬物を身に付けているだけのその人物は振り返り、ぎろぎろと蠢く眼をぎゅっと細めた。

「思っていたより早かったな。陣内左衛門」

 笑みというよりは、獣が牙を向いた様な表情である。それを向けられた陣内左衛門は剥き身の刀を思わせる鋭い眼光でもって見返すが、相手は臆する事も無く、手の内にあった二尺近くもありそうな雉の首を持つ手をおもむろに捻った。
 ぽきり、と、骨が折れる音だけが響く。
 陣内左衛門はその近くに落ちた大人の握り拳程の石礫に目を落とした。血が着いている。印地打ちで仕留めたのかと陣内左衛門の涼やかな目はきゅっとすがめられる。
 凡そ、齢十四の娘がする事ではないと彼は思う。其処にあるのは感心等では無く、奇妙なものに対するうっすらとした嫌悪に近い感情だった。

「行くところがある。凪の供をせよ」

「お断り致します」

 何処ぞの野武士かといった風情のこの子どもこそが、黄昏時城主の息女、凪姫であった。
 己の下知をひとつ返事できっぱりと断った陣内左衛門に対して凪は気にする風でもなく「なら一人で行くとするか」と通り過ぎようとする。その肩を、陣内左衛門はぞんざいな手付きで掴んだ。
 先程から彼の態度は、一国一城の、しかも己が遣える城の主の娘に対する家臣のそれとは到底思えぬものであったが、当の凪は気にする風でもない。
 寛大というのとは少し違う。この忍軍の男は凪の物心着くか着かないかの頃から不敬、慇懃無礼な態度を貫いているのだ。其処にあるのは慣れと、ぶれぬ姿勢に対する呆れの混ざった信頼の様なものだった。

「勝手も大概になさいませ、凪姫様」

 常々姫らしからぬ、女らしかぬと思っているこの娘を敢えて『姫』と呼ぶのは陣内左衛門なりの皮肉を込めた蔑称である。
 凪はそれも諦めと共に承知しているので最早態々指摘も噛み付きもしないが、ただ、少しだけ苦笑するかの様に目元を歪めはするのだった。

「馬は借りるぞと言うたし、妙徳和尚には少し出ると言うてある」

「それは了承ではございません。言い捨てた、と言うのです」

「まあ、それもそうだな。では陣内左衛門、儂の代わりに皆に言うといてくれ」

 これも持て、と、血の滴る雉が陣内左衛門の鼻面に突きだされる。

「お栄の方様に滋養をつけられよと、渡してくれ」

 お栄の方とは、新たに黄昏時に男児を産んだ側室である。雉を押し返す陣内左衛門は表情こそは無いに等しいが、眼には疎ましさと煩わしさを煮詰めた汁を氷室に置いて凍らしたかの様な冷ややかさを纏っている。

「その様な生臭ものはお口には合いませんでしょう」

 貴女とは違って、と、言外に伝え、それは伝わるが、凪は鼻筋に皺の寄る獣臭い笑みを浮かべるだけ。

「ならば、お前らで食え」

 では儂は行く。と、凪は歩き始めるが、その前に陣内左衛門は立ち塞がる。

「殿に頼みがあるのでしたら、斯様な勝手をなさらぬ方が得策かと」

「それはお前の意見か」

 凪は、おなごらしからぬ程に体躯がしっかりとして、身の丈もそれなりにある。とはいえ、忍軍の精鋭たる陣内左衛門と比べれば頭三つ分は小さい。その頭三つ下からぎろりと釣り上がった眼が睨む様に見上げる。
 両者の視線は暫し、睨み合う様にかち合っていたが、やがて、凪がふんと、鼻を鳴らした。

「どの道、父上はもう帰路じゃな。分かった、帰る」

 供をせよとは言われなかったが、放っておく訳にもいかず、陣内左衛門はざかざかと歩き始めた背の数歩後ろを影法師の様な静けさで着いていく。

「妙徳和尚に見つかると煩いからな。貰っておけ」

 後ろ手に差し出された雉を受け取りながら、影法師の眉間には皺が二、三本と増えるのである。

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