花と嵐
□夕闇に立つ
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さて、己が父に目通り叶わんとした遁走を断念した凪であったが、その遁走より数日後に件の父、黄昏甚兵衛によって黄昏時城へと呼び戻されたのであった。
その凪姫が帰城せし日の夕刻、茜の日差しの中を鬼気迫る表情で闊歩する陣内左衛門の姿がある。
陣内左衛門はその直情的に見える歩みを止める事もなく二の丸の馬繋ぎ場へと向かう。
馬繋ぎ場に運悪くも居合わせていた馬番は陣内左衛門の姿と形相を見てへこへこと頭を下げながら「彼方におられます」と消え入るような声で言う。
その後は馬の世話で忙しい素振りとなった馬番に、彼は目もくれず礼もそこそこに馬繋ぎ場の裏手に回る。
其処にある一本の柿の木。
まだまだ芽吹きには遠い時期だが、其所は日当たりが良いのかちらほらと萌木色の粒の様な若芽を身に纏っている。その枝に腰掛けている凪を陣内左衛門はぐっと見上げた。
「凪姫様」
「ああ、来たか」
凪は袴の脚をぶらぶらとさせながら目だけをきろりと陣内左衛門に落とす。
「側仕えの件、私は御断り致します」
「ふん、言うと思うたわ」
口の端を歪める様な笑みを浮かべた凪は、よっと小さな声を上げて地へと降り立つ。
「儂に訴えたとて意味はないぞ。父上の御下知であるからな」
「ええ。ですから、凪姫様御自らが殿に私を要らぬと言って下されば宜しいのです」
「……何処までも本気の所がお前の長所なのだろうな」
陣内左衛門の憤懣やる方無しと饒舌に語る目を見上げた凪は、眉をひょいと上げながら口許を呆れに歪めていた。
「雑渡の意向であってもか」
「組頭の御意向でも唯一添いがたきは、組頭のお側を離れる事です故」
凪の軽い笑い声が辺りに響いた。柿の枝の向こう、高天には既に夕闇が迫って来ている。
「忠義な事で結構だが、忍軍は城主が手足である事を失念してはおらんか」
「分かっております。殿の手足が一本ではございますが、貴女の手足ではございません事も含めて」
そう言い捨てた陣内左衛門に凪は深々と息を吐く。
といってもそれは嘆息というよりは何処か作為的な、これ見よがしといった風情だった。
「なあ、陣内左衛門。儂にはお前の弁は餓鬼の癇癪にしか聞こえぬのだが」
陣内左衛門の眉は一瞬つり上がり欠けるがそれは意識的に納められた。突発的な感情に任せる事は忍のする事ではない。そう身に染み着いた思考。それは彼に、凪の言葉が、無意識に重く刺さる結果となった。
陣内左衛門は動かぬ表情のまま、反論を探す、が、一度其処に止められた思考は思う様に動かない。何を言ってもこの姫には『餓鬼の癇癪』であるに帰される様に思えた。事実そうだと認めざるを得ない程に。
「あれも嫌だこれも嫌だと、愛しい忍組頭の元を離れて、嫌いな儂の側には着きたくないと、そう申すのだな」
凪は、陣内左衛門のごく内面に留められた狼狽に気付いているのかいないのか、さらに言葉を打ち込んでいく。そうして陣内左衛門が直ぐに口を開かないと見るや、またこれ見よがしな風情の溜息を吐いて、彼の脇を通り過ぎた。
「あい分かった。父上には儂から言うといてやる」
「凪姫様は宜しいのですか」
口に出した後、それを惜しむように唇をまた固く閉ざした陣内左衛門は凪が首だけを此方に向けるのを見返す。
「何がだ。癇癪持ちの餓鬼のような懐刀など別段惜しゅうない」
言葉は辛辣であったが、凪はあの低く唸る唐獅子の様な面差しを歪める事も無い。表情こそ憮然たるものだが、故に、凪の胸の内には一片の揺れも無いことが陣内左衛門には分かった。
「そうでは御座いません」
陣内左衛門は言葉足らずかと思ったが、次に口を開く前に凪が一笑した為にまた口を継ぐむ。
「それこそ餓鬼の癇癪ではないか」
ざりと此方を向き直る凪の顔は日を背にして表情は推し測れない。
誰そ彼時、であった。
「この家の嫡男は鷹千代丸殿じゃ。そして、この凪は鷹千代丸殿が御立派に御家を守る御手伝いをさせて頂ける」
それも、と、暗中に沈んだ眼がぎろりと光った。
「姫としてでは無く、武人として」
歯が見えた。笑った、様に陣内左衛門には見えた。
鷹千代丸、新たに生まれ、漸く首の据わり始めたいとけない若君が、黄昏時の嫡男であり世継ぎである。
男として育てられた凪姫の立場は、端的に言えば『予備』や『保険』としての立場は必要無くなった。事実上、凪は用無しなのである。
陣内左衛門の脳裏に馬をかっさらい山中を駆け出す凪の姿が過る。
突拍子の無い行動の意味を陣内左衛門は理解している。理解していると同時に、
「此れを喜ばすして、何を喜べという。然らば間者にでも素波にでも教えを乞い、凪は強く賢くなるんじゃ、父上も儂にずっとそれを望んで来られた」
尚も、この姫は足掻くのかと思うのである。
暗中に牙を向く獣は、ぞろりと、陣内左衛門の前に歩みでる。
「陣内左衛門」
凪は数日前の様に陣内左衛門を見上げてくる。
然し、陣内左衛門は今はこの齢十四の年端もいかぬ娘に見下ろされているかの様な感覚を覚えた。
「女の主は不満か」
陣内左衛門は答えない。
「ただ、此れは戦人となる女ぞ。お前は見たくは無いのか」
「何をです」
凪は笑う。
顔を歪める様な其れではなく、凡そ新しい玩具を前にした小さな子どものような無邪気な楽しげな笑みだった。
「女が、天下一の武人となるのだぞ」
陣内左衛門は答えなかった。
やがて、凪も立ち去り、辺りは宵闇の内へ沈む。
陣内左衛門は、誰もいない闇に向かって嘆息する。
自分は結局あの女に着いていくのだろうという不本意な予想が彼の中で頭をもたげ、それはまた数日後の内に現実のものとなる。
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