花と嵐
□日が昇れば月は沈む
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黄昏時城の主、黄昏甚兵衛は、慧照寺から呼び戻した息女、凪を前にして満足気な笑みを浮かべた。
「先日、家臣から馬をかっさらって遁走を仕掛けたようじゃの」
「はい、勝手を致し、申し訳御座いません」
余計な言い訳も言わない代わりに、「申し訳御座いません」等と言う割りには全く悪びれる様子も無く堂々としている凪の様子に、甚兵衛は可笑しくて仕方無いとばかりに哄笑する。
「元気が良いのは良いことじゃ、聞くところに寄れば山一つを越えた所で忍軍の、何と言ったかな、」
「高坂陣内左衛門です」
「そう、高坂陣内左衛門に捕まったそうな」
「はい」
「大したもんじゃ、のう妙徳」
甚兵衛は凪の後ろに控える老僧にそう声を掛ける。
背の丈は四尺にも満たないのでは無いのかと思わせる小柄な老僧は慧照寺の和尚である。
妙徳は、ほっほっと山鳩の様な穏やかな笑い声を立てながら頷く。
「凪様は経を写すよりも兵法書の写しにご執心であられまして、すっかり武将の御子息の風情。先日も馬に飛び乗ったとばかりあっという間に米粒の大きさに見えるほど遠くまで駆け去られました」
「うむ、儂の若い頃もそうであった」
「ええ、まっこと、凪様は甚兵衛様のお若い頃と瓜二つ」
我々も手を焼いております、と苦言めいたものを付け加えはしたが、妙徳和尚は変わらず笑顔のままであった。
甚兵衛はうむとそれに首を振り、凪に目を戻す。
「さて、凪よ。今日呼び戻したのは言うまでもなく、鷹千代丸の事じゃ」
凪の野太い眉がひくりと動く。
「鷹千代丸は何時れ、この黄昏の家督を継ぐ者。それは分かるな」
「はい、無論でございます」
凪のへの字口は固く引き結ばれた。
身構えている様なそれに対し、甚兵衛は小さく一笑する。
「凪。案ずるな。おぬしは嫁に等やらん。おぬしが生まれてから今まで男として、武人として育ててきたのはこの儂ぞ」
甚兵衛は少し身を乗り出す様に、その雄々しい相貌を光らせた娘を見る。
「凪よ。儂はおぬしに男の名をやる」
凪の目が微かに見開かれた。
「元服じゃ、おぬしを元服させる」
凪は息を吸う、確かめるように吐きながら、甚兵衛を見返し、言葉を紡ぐ。
「父上は、凪を男にしてくださるのですか」
出た声が震えていたのは、武者震いの様なものであったろう。
凪の口角は僅に上へ歪む。
牙を剥くように、凪は笑った。
「加えて、おぬしを慧照寺及び、この城を離れ、ある場所に入れようと思っておる」
「……何処ぞの城に御座いますか」
「城ではない」
詳しくはこ奴に聞けと、甚兵衛のその言葉と共に影法師が沸き立つように面妖な男が現れた。
身の丈は六尺を越える大男、忍び装束に身を包み、隙間から見える肌は更に包帯に包まれ、僅に見える肌も、特に頭巾の間から見える隻眼の周りは焼け爛れた色をしている。
見るからに不気味なその男は城主たる甚兵衛の懐刀。
「嵐様に置かれましては、忍術学園への御編入をして頂きたく存じます」
黄昏時忍軍忍組頭、雑渡昆奈門は、此方に目だけを向けた凪に隻眼を細めた。
さて、雑渡昆奈門が語りし忍術学園。
畿内国は某所の深山にひっそりと存在する忍の学舎である。
忍の家からは元より農家、商家、武家様々な出自を持つ子供たちが一所に集まり忍の技と心を学んでいた。
子供達といえども、彼等は皆手練れの忍達に教えを受けた精鋭の集まり、その威力は一国の軍にも劣らない。
故に、周辺諸国からはそれなりの関心と警戒を寄せられている一勢力であった。
黄昏時とてその寄せる関心と警戒は例外ではなかった。だが、その黄昏時の忍組頭雑渡と、今は卒業したとある生徒の間に生まれた奇縁により、敵対と和平の間を縫う様な微妙な中立関係が続いていた。
その、忍術学園。新学期の始まらんとする春の日。
広大な敷地の内のひとつ、生徒達の下宿先である忍たま長屋の一室から、バンと強かに粗野な音が響き渡る。
その一室に座するのは二人の人物。
件の黄昏時城主が息女、凪。
今は元服して名を凪雅と改めた。
彼女はその粗野な音を立てた頑健かつしなやかな腕と、その腕を登り見てある渋面を見てすんと鼻を鳴らしたのだった。
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