花と嵐

□春が満ちれば花が踊る
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 五年は組の三反田数馬は、目を開いた直後に、その覚醒が部屋の前に訪れた気配の為だと分かり、身を起こしてから時刻は夜明け前程かと軽く欠伸を噛み殺した。

 戸を開ける。
 其所に立っていた人物は、微かに息を呑んだ。

「起きておったのか」

「いや、今起きた……どうしたの」

 数馬の『どうした』には、二つの意味があった。
 こんな時間に何の用だ。という意味と、その格好は何だ。という意味だ。
 腕に抱えた木箱を差し出した五年い組の編入生、黄昏時の姫武将、凪雅は、その性別に準じたしとやかな小袖を身に付けている。

「起こしたならすまぬ。夜を預かって欲しいのだが」

「よる」

「こいつじゃ」

 数馬の眼前にある箱。詰め込まれた布の中で小さな烏猫が身動ぎした。

「明後日には戻る。孫兵の部屋には先客が多いからな。急ですまん」

「出掛けるのかい?」

「ああ。所用で黄昏時に、」

「所用で、」

「貧乏籤を掴む価値ありと思わせに行く」

 低く囁いた凪雅は、小さく顔を歪める。辛うじて笑みに見えるその表情を見て、数馬の目は凪雅の胸元、爪先に落ち、またゆるゆると顔へと戻る。その顔は、先日の組手の授業に負った傷と痣がまだ痛々しい。
凪雅は数馬の視線に、「女の振り、だ」と、すんと鼻を鳴らした。

「陣内左衛門は心配性での」

「……良く分からないけど、取り敢えず、その子を預かれば良いんだね」

「頼めるか」

 数馬は頷き、箱を受け取る。
 凪雅は「かたじけない」と一言。踵を返し、白む前の青い闇の中をやや大股に、廊下を歩き去っていった。
 それを見送って、数馬は部屋の戸を閉める。振り返れば、同室の浦風藤内が衝立に肘を着いて此方を見ていた。

「女だけれど、男の振りをしている凪雅が、女の振り、か……なんだかあべこべだなあ」

 藤内はややぼんやりとした声でそう言って、癖の着いた前髪を掻く。数馬は小さく笑った。
 夢の内にいるようで、すっかり目は冴えてしまったと、数馬が見下ろす箱の中で小さな『夜』がかそけき声で鳴く。

 夢の様だとは思っていたが、軈て、夜が明ければ、やはり夢では無く、凪雅は夜も開けぬ内に忍術学園を出発していた様である。然しながら同級の伊賀崎孫兵はそれを塵とも気にしていない様子で、只、午前の授業が終わる頃に「猫にやれば良い」とだけ食堂から貰ってきたのだろう煮干しや魚を擂り潰した小鉢を数馬に渡しに来たものだから、「相変わらず動物中心だ」と数馬は苦笑する。

「『夜』とは、良い名前を貰ったなあ。お前」

 五年ろ組の神崎左門は、そう目を細めた。
 彼が目を落とす先では、件の烏猫がカツカツと音を立てながらその孫兵手製の餌を貪っている。
 長屋の縁側の陽当たりは良く、小さな黒い背中の毛が蠢きながらちらちらと光るのだった。

「黒いから夜って、安直過ぎだと僕は思うけど」

 縁側に腰掛けながらその烏猫と左門の様子をぼんやり眺める藤内の癖毛も、同じ様にちらちらと光る。
 任せられた数馬は委員会に出ている。保健室に獣を入れるわけにはいかないので代わりに藤内が夜の面倒を見ていた。「生き物を飼う予習だ」と、本気とも冗談とも取れぬ事を言いながら恐る恐るといった手付きで小さな身体を抱き上げる姿に数馬はにっこりと笑って、委員長代理として長屋を後にしたのである。

「僕らが呼びやすくてこの子も覚えやすい名前なら安直でも構わないんだよ」

 餌を食む夜。それを楽しげに見つめる左門。それらを眺め表情を和ませている孫兵が言った。
 左門の同級である富松作兵衛と次屋三之助も委員会に出払っている。迷子組と呼ばれる壊滅的に方向の勘が無い二人組の一人である左門を、世話焼きの作兵衛がいないこういう午後に迷わぬ様に導くのは何時しか孫兵の役目になっていた。
 『左門贔屓』と仲間内では親しみを込めて揶揄される二人の様子は、仲の良い友人の様でもあり、手綱を握りあっている様にも見える。年の割りには何時までも何処か純粋で無邪気に動物的な印象のある左門と、一方、厭世的というのか、人間同士の関係を疎んじている様な孫兵と、傍目には一見、対照的な二人だが、何処か通じ合うものがあったのかもしれない。
 欠けた器とその破片がぴったりと合わさる様に、少なくとも、彼等を近くで見てきた藤内は、そう思っている。

 軈て餌を食べ終えて夜は、てしりてしりと顔を拭うや否や、ピンと細い尻尾を立て、ふりふりと前屈みに尻を降りだす。

「おっ、」

「もうすっかり元気だね」

 風に乗って縁側に舞い込んでくる白い花弁を捕まえようと跳ね回る夜を三人は目で追う。

「この花びらって、何処から飛んで来るんだろう」

 ひらんと顔の前を掠めた一片を、藤内が掴んだ。山桜だ。

「きっとあの山からだ」

 左門が指差す先の山は、萌木の薄緑のあちこちが淡い白に煙った様に見える。
 あんな所から飛んで来るとしたら、左門や三之助以上の方向音痴だな。と、藤内は一人小さく笑いながら手の中の花弁を地に落とした。

 小さな夜は、背中に乗る花弁にも気付かず舞い飛ぶ白を追い掛けている。


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