花と嵐

□落ちるならば這い上がる
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 参ったものだ。
 黄昏凪雅は、その沸いてきた言葉に苦笑する。それは自分には使い覚えの無い言葉に思えた。
 凪雅は首を上向ける。遥か高い場所にぽっかりと丸い空。白々とした眩しさに目を眇る。土の匂いがする。
 凪雅は穴の内に落ちていた。今頃ならば、数日前に編入したばかりの忍術学園の正門前にいた筈だろう。
 どうしてそうなったのか、それは今からつい四半時ばかり遡る。



「もうここまでで構わんぞ、兄者殿」

 凪雅が振り返った先の渋面は、この険しい山道にも変わらず崩れず憮然としたままである。
 黄昏時領にて『嫡子』としての役目を終えた凪雅は、この渋面の従者の進言で足早に忍術学園への帰路に着いていた。
 従者、黄昏時忍軍狼隊小頭の高坂陣内左衛門の言い分としては、凪雅が小夜川衆へ戦の準備を進める事はまだ表沙汰にはできない事、そして、凪雅はあくまで城主黄昏甚兵衛に疎まれていると思わせておくべきだという事であった。
 凪雅にはそのはったりの全貌までは掴めないが、言い分には筋が通っている様に感じた故に呑んだその帰路は父、甚兵衛に挨拶も無しの酷くひっそりとしたものであった。

 ここまで帰り着けば、後はもう道なりに行けば程無くして忍術学園に辿り着く。
 危険もそうそう無いであろうし、兄と偽っているこの男がべったりとひっついているのも人に見られれば不審な気もするし、また逆に、凪雅の身の上を知るあの六人の学友に見られてもまた不審がられる気がした。
 何より、この苦いものをずっと口に含んでいる様な男が威圧感たっぷりに着いてきている事に少々うんざりしていた凪雅は、陣内左衛門に「もう帰りなされ」と態とらしく弟めいた声で言葉を重ねたのだった。
 
「……では、そうさせて頂きます」

 その答えに、小さく息を吐いた凪雅は、ふと思いついたままに口を開く。

「黄昏時に帰るのか」

 ふと思ったままに聞いただけであったが、それを聞いた訳はどうやら後から着いてきた様だ。
 明らかに増えた陣内左衛門の眉間の皺に、凪雅は笑う。牙を向く獣じみた、顔を歪めるような笑みには一の従者のぶれない姿勢に対する呆れが乗っている。

「今はここより程近い市井にて借宿を取って暮らしております」

「それはさぞ雑渡が恋しかろうな」

 思ったままを直ぐに口に出すのはある意味では凪雅の短所かもしれない。
 陣内左衛門は踵を返し、あっという間に飛び去っていた。主人に対する礼の一つも無くである。
 凪雅はまた、獣じみた笑みで顔を歪め、道を進みだす。
 そこから高々、十歩だか二十歩だか進んだぐらいの事だ。

 小石に乗せるようにして十字に重ねた枝を少し不自然だとは思った。
 それが学友から教えられた罠の目印の一つである事を思い出した時には、凪雅の目の前には真っ黒な土壁しか無かったのだった。

 情けなしと思いながらも呼んでみた陣内左衛門は全く表れる様子が無く、「あの阿呆、駄犬が」と密かに毒づいてから「阿呆は儂の方か」と独り呟いて、それから四半時。今も凪雅は穴の中にいる。

 このまま誰も気付かれぬまま、飢えて乾くとしたらあまり望ましくない最期だな。と、凪雅は膝を丸めて座り込み丸い空をじっと見ていた。
 望ましくないとは言っても、策も無し、何度か這い上がろうとしてみたが、引っ掛かりというものが全くない土壁が無駄に崩れるだけで下手をすれば寧ろ生き埋めになりそうだった。
 そうと来ればもう下手に足掻かず、ただじっと丸い空を見上げながら近づく気配は無いかと待つしか無かった。

 空が遠い等と思ったのは初めてだ。穴の中は存外に息苦しく無く、少し冷たく、ただ静かだった。
 土に眠る死者はこんな気分なのだろうかと、凪雅はぼんやり、目を閉じる。
 が、直ぐにそれをまた開いた。
 誰かが、某かの足音が近づいてきているような気がする。
 気のせいか、そうでなくとも、気づかず通り過ぎるやも。そう思う程に密やかな、有るか無しかの足音は、やがてひた、と、止み、暫くの間をおいて、丸い空に一つの影を浮かばせた。

 穴を覗くその人物の顔は逆光になり良く見えないが、眇た視界にどうにかその男が、学園の制服を着ている事は分かった。

「…………おやまあ」

 と、その影から、抑揚の無い声が落ちてくるのだった。

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