花と嵐
□落ちるならば這い上がる
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忍術学園六年い組の綾部喜八郎はこの日も一人で学園周囲の罠の入れ替え点検にふらふらと山道の方々を歩いて回っていた。
何かと癖の強い学園上級生の中で、更に輪を掛けた変わり者とでも言うのか、協調性をご母堂の腹の内に忘れたまま生きてきたかの様な彼は昔から一人が苦痛だと感じた事が無い。
それは一人を好むとはまた違う。
とかく喜八郎は、己がやりたい事しかやらない人物なのだ。
気が進まない事に対してはとことん怠惰な彼が唯一心血を注ぎ最も高い関心を寄せているのが『罠』と『落とし穴』と『蛸壺』である。
この一人の見回りは喜八郎の日課であった。
その見回りも粗方済んだ後。
さて、どうするか。と、喜八郎は宛もなくまだ歩く。
今朝は、同輩の、平滝夜叉丸が反省会がどうとか言っていた様な気がするが……面倒だ。
面倒だと、そう片付ければ、喜八郎はもうそれしか思い付かない。戻れば見つかって、またくどくどと何かを言ってくるだろう。あれこれ構われるのは実のところ悪くないと思っていなくもないが、それでもやはり、面倒だ。
ならば、今日は夜まで適当に山中で過ごして、終い湯の頃に戻ってさっさと寝てしまおうか。
うん、そうしよう。と、肩に担いだ長年の相棒たる踏み鋤の柄をぐっぐっと確かめる様に握る。
その時だった。
少し前方の道に、ぽかりと開いた穴がある。
喜八郎はふと足を止めて目を少し眇る。
罠の印は、置いてある。
自分が掘った落とし穴で間違いないだろう。
罠の印がありながら引っ掛かるとすれば、不運もとい保健委員会か、まだ幼い下級生か、間抜けな狸や野うさぎか、山賊か……後者になればなるほど面倒だと喜八郎は少し顔をしかめる。
穴からは助けを求める声は聞こえない。
声が出せないのか、落ちて暫くたって諦めているのか、気を失っているのか……喜八郎は少し顔をしかめたまま暫くじっと立ち止まり考えていたが、結局、見て見ぬ振りは選ばす、のろのろと穴へと近付き中を覗くのだった。
不運委員会か下級生か狸か野うさぎか山賊か、その実、穴の中にいたのは喜八郎の予想したどれとも違っていた。
「…………おやまあ」
今朝から今日初めて出した声が、穴へと落ちる。
穴の底には見覚えの無い少年が膝を抱えてこちらを見上げていた。
やや褐色気味の肌に野太い眉、鋭い目を眇て、口はへの字……野趣溢れるといった顔立ちのその人物は目を眇て喜八郎をじっと見ている。
まさか狸か山犬が化けたのかしらんと、喜八郎は一瞬思い、その忍たまらしからぬ馬鹿げた思考を胸の内で密かに笑い飛ばした。
ふわふわと夢見がちな様で、本質は現実主義で理知的な部分も持つ喜八郎は、この少年の正体に心当たりがある。
「そこにおりますのは、学園上級生とお見受けする。すまぬが、助けてはくれませぬか」
「変な喋り方。お武家みたい」
思ったままに言った。
少年は少し黙り、それから「良く言われます」と顔を歪めた。
変な笑い顔だと喜八郎は思った。
「君は噂の編入生でしょ」
「はい。高坂凪雅と申します」
「黄昏時忍者は優秀な癖に、こんな穴も這い上がれないんだ」
「此方、兄とは育ち方が違いました故に」
「ふぅん……変なの」
「でしょうな」
ずけずけとした喜八郎の物言いにも、その黄昏時から来た編入生、高坂凪雅は堪える様子も怒る様子もない。暗い穴の中でもぎらりと光る眼が、じっと喜八郎を見ているだけだ。
穴の外から見下ろしているというのに、逆に自分が見下ろされているかの様だ。と、喜八郎は唇をちょんと尖らせる。
なんとなく落ち着かない気分に、舌打ちもして、懐から出した携帯用の縄梯子をぞんざいに穴の中へ下ろした。
凪雅は、ゆっくりとそれを登り、やがて穴の外へと姿を現した。
日の下で見ればその姿は益々頑健そうで獣じみている。
肌を切り込んだかの様なつり上がった眼はまだ喜八郎をじっと見据えていた。
「六年い組の綾部喜八郎」
その睨む様な視線に対する喜八郎の解釈はあっていた様だ。
凪雅は、またくしゃりと変な笑い顔を見せて軽く頭を下げた。
「綾部殿。助けていただき有り難う存じます」
「殿ぉ……?」
喜八郎は顔をしかめる。
本当に変な喋り方だ。
「罠の印は良く見なよ。生徒を落とすためにある訳じゃない」
「ええ、以後気を付けます」
変な奴だ。
落とし穴に落ちたくせに、妙に堂々としている。
そのいやに泰然とした雰囲気は、喜八郎の脳裏にある人物を少し過らせる。
それに、また舌打ちをした。
目の前で舌打ちをされたのに、凪雅は眉ひとつ動かさない。溜め息が出た。珍しく。
「…………正門まで送る」
面倒だ。と、そうお決まりの言葉を頭に浮かべながら、喜八郎は踵を返すのだった。
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