花と嵐

□雨が降れば風も吹く
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 さて、滝夜叉丸が聞いた、件の怒声は、彼より現場の近くにいた者にはこの様に聞こえた。

「土井半助!覚悟おおおっ!!」

 忍術学園の教科担当教師を襲う者の声。
 凡そ穏当でないその声。然し、それを耳にした教員や生徒達は、皆てんで関心が薄かった。

 ふっと顔を上げて「あー……」とでも言いたげな表情を浮かべたり、実際にそう口に出して、それから後は本来自分が取り組んでいた用事やら談笑やらに何事も無かった様に戻る。と、皆、大体こういった様子だった。
 唯一、入学したての一年生達が少しざわつきはしたが、それも授業中の事。教師の咳払い一つでまた集中を取り戻していた。

 彼等、学園に集う者達にとって、例の怒声はもうお馴染みのものであり、今その怒声が聞こえてきた方角で何が起きているのかも想像は容易に過ぎ、またかという印象しか持たないのだ。

 さて、では、彼等にとってお馴染みのその怒声が聞こえてきた方角、職員長屋で実際何が起こっていたかと言えば。

「尊奈門君、君ね。もう少し学習した方が良いよ」
「そっちも今日の回避の仕方は随分雑だな」
「君には言われたくない」

 対峙する若い男が二人。
 一人はまだ少年のようにも見える、意思は強そうだがいとけない顔立をした男。忍び頭巾に包まれた顔、くりくりと丸い眼の上の額はうっすらと赤く盛り上がり瘤が出来ているようである。
 もう一人もまた、幼げな顔立ちではあったが、歳の割にはという言葉が浮かぶ辺り、瘤の青年よりも年嵩に見える。何よりその男の纏う雰囲気は若者の精悍さより、年長者特有の少し草臥れた落ち着きの方が強く出ている。
 件の『土井半助』が、彼である。齢二十七。教師としても忍としても中堅に差し掛かる辺り。
 そして瘤の青年は、黄昏時忍軍の忍、諸泉尊奈門だ。此方は二十一才。未だにこの土井半助に文房具で負かされた事を同僚にからかわれるくらいには若輩者である。

「大体、飛針を使うならもう少し静かに来なければ駄目だろう?」

 呆れた苦笑を浮かべている半助の手に、鈍く光る数本の針、その先は白くなっていたり、潰れていたり等。半助が飛んで来た針に正確にかち合わせたチョークやら、弾き落とした出席簿やらの為である。半助は拾い上げたそれらをまた直ぐに地に放り投げた。

「不意打ちを襲い勝ったとて、意味は無いからだ!」

 尊奈門はそう吠えるように宣う。懐に入れた手には恐らく追撃の武器がある。
 半助の目が、少し細くなった。

「一体何がしたいんだか……」

 半助は本当に、思ったままを言った。
 不意打ちに、意味が無い……否、相手の虚を衝き、不意に付け入るのが忍の本分だろう。常々不思議だ。この青年は、本気で己を打ち負かすつもりがあるのだろうか。
 半助から見れば、尊奈門の剣幕も勢いも、確かにある殺気すらも、子どもの戯れ事の様なのである。
 小さく笑えば、尊奈門の表情が更に険しくなる。

「お前が本気でこない限り、私は正面から来るしかない」
「それは何度も聞いた。答えは同じだよ。私闘はやらない主義なんだ」

 つまり、尊奈門の言い分では、これまで何度、尊奈門が勝負を挑んでも、半助が一貫して文房具の類いでそれをあしらっている事が不満なのである。
 軽く見られている。馬鹿にされている。故に、正面から挑発し、半助を本気にさせようとしている。
 そういう事なのだと、半助も分かっているのだが、然し、己が口から言うように、半助は私闘をやる気は無い。
 それは、子ども達を守る教師という立場が大半と、一抹の合理主義的思考がある。意味が無いと感じる事はできる限りやりたくないのである。

 毎回、適当にあしらうのは実のところ面倒なのだが、相手は一応ながら黄昏時の忍者である。本気で敵にはまわせない。
 長いこと尊奈門が諦めるのを待っているのだが、初めて会った時から月日がそれなりに経った今でも忘れた頃にやって来る。
 半助はもう、尊奈門の襲来は、時折やってくる雨の日の様なものだと思うことにしている。煩わしいが、言っても仕方が無い。という事だ。

 然し、今回に限っては、半助の想定よりも早く、その煩わしい雨はやんだのだった。

「んっ!?」

 尊奈門の背後から飛んで来たのは、一本の薪木だった。それなりに重たげなそれに当たれば、そこそこに衝撃を受けたかもしれないが、背中を狙っていた様なそれを、尊奈門はなんなく払い落とした。半助は、そこで薪木だと気付いた。それを投げ付けた人物の存在にはそれより早く気付いていた。何せ、その人物は気配を微塵も隠そうとしていなかったのである。

「久しいな。尊奈門」

 尊奈門が振り返った先に立つ、生徒が一人。
 妙に不遜で不穏な空気を纏うのは、薪割り用の鉈を片手にしているからというだけでも無いだろう。
 半助から見える尊奈門の横顔の端が明らかにひきつった。

「…………凪、さ」
「様はよせ。儂は高坂陣内左衛門の弟の体故。薪割り当番の合間に聞いた声がすると来てみれば、やはりお前だったか」

 編入生、高坂凪雅。
 彼もとい彼女の実態を知るのは教員と一部の生徒のみ。
 嫡男として育てられた黄昏時の姫御前は、忍軍の忍の弟という偽りの身の上で扱えと言った割には、その表情や雰囲気から、主が従僕に対して掛ける威圧を余すこと無く寧ろ有り余る程伝えていた。
 産まれた時より、人の上に立つ事を強いられてきた故なのかもしれないが、凪雅のその威圧は、余りにも当人に良く馴染んでいる。
 それは、尊奈門に居心地悪げに膝を着かせ、半助には生徒風情に会釈をさせてしまうのである。

「先生までお止めください」

 凪雅は、そう肩を竦めると、尊奈門に近づく。「立て」と短く一言、それに立ち上がった尊奈門を軽く見上げながらも、見下ろしているかの様な錯覚を覚えさせる凪雅。

「お前が、此方の土井先生に執着しておるというのは誠だったか。して、何用で参った」
「仰せの通り、私は今日は土井半助に私闘を申し込みに参りました」
「本意で無き事を。仮にも殿の手足が一つに斯様な自由を許すはずもなかろうなあ……あの男が」

 半助は、凪雅と尊奈門を見比べ、数歩然り気無く後ず去る。
 去るべき機会を見失なおうとしているが、二人の会話は明らかに不穏であった。
 加えて凪雅の眼差しの冷やかさ。
 尊奈門の未だ見たこと無い様な無表情。先程までとは全く別人のそれ、此れぞ忍であると言わんばかりのそれに、半助は不本意ながら背筋が少しヒヤリとするものを感じた。
 言うなれば、己に懐いていたと思った野良犬が、ある時、死人の肉を貪っているのを見たかの様な不快感。

「はて、父上の御犬は、どの者の差し金で儂のご機嫌伺いに参ったのじゃろうなあ」

 対しての凪雅の表情は、恐らくは笑顔なのだろうが、凶悪も凶悪。釣り上がった口の端から獣の牙すら見えそうである。尊奈門の返答次第ではその喉笛に噛み付くのでは無いかと冗談の様な事を然し、本気で思わせる気迫だった。
 尊奈門は、その表情を、主の姫である者のそれを、変わらず凪いだ表情で見下ろす。

「お答えはできませぬ」
「…………ほうか、お前も大概に甘い」

 凪雅はくつくつと可笑しげに笑い、それから半助を横目に見た。

「父上の忍が失礼を致しました。此方からも良く言い聞かせておきます」

 先程の凶悪さは陰もない様な穏やかな微笑みを浮かべた凪雅は、一礼の後、さっと踵を返した。

「まあ、来たのならば調度良い。お前に頼みがある」

 そう言った真っ直ぐとした背中に、尊奈門は無言で着いていく。
 半助はその場に残された。
 知らず、口から出た溜め息が、空気を揺らす。

 様々な出自の者が集う忍術学園ではあるが、その内にも大概において、厄介な事情を持つ類いはある。

 一つは、忍の家から来たもの。
 もう一つは、武家から来たもの。

 その二つを掛け合わせた凪雅が、不穏かつ厄介でない筈もないのだ。

 昼下がりと夕まぐれの間の空は、春らしい穏やかさではあったが、その薄曇りの空に来るべき大風の気配を感じる半助は独り、鈍く痛む腹を擦るのである。

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